博打打ちの品格 〜麻雀放浪記〜
麻雀放浪記
総合政策学部3年
小山峻
敗戦後の上野を舞台に、少年哲が様々な博打打ちと出会い、時に苦渋を味わいながらも成長してゆく作品、『麻雀放浪記』。冒頭の暗暗としたあばら屋でチンチロリンをする場面にて、薄汚い中年達がくしゃくしゃになった聖徳太子の百円紙幣を腹巻きから出すシーンは、余計な美化のない戦後日本の等身大の様子を窺うことができる。あばら屋の電球が切れた際に、名前もわからぬ脇役のじじいが「明るくなった明るくなった戦後の日本」と言いながら蝋燭をつけるシーンはやたらと印象的であった。また本作は80年代に製作された映画であるが、あえてモノクロームによる撮影を行なっている。そのお陰で、終戦直後の何かが満ちていないような雰囲気が終始画面から滲み出ている。
本作の何よりの特徴は、「賭け」というものが登場人物達の骨の芯にまで染み付いている描写の上手さにある。とにかく何から何まで博打野郎なのである。次に雀荘に来る人物の年齢で登記簿と女を賭け、事切れる直前まで麻雀に興じる。愛人まゆみの「博打をやめさせるわ」という台詞に対してドサ健が「できるかどうか、賭けるか?」と返す場面は、ギャンブラーの生き様を見事に表していると言ってもよい。しかしたとえ救いようのない有様を見せつけられても、鑑賞者は彼らを憎むことができない。どの登場人物にも濃密な個性が、そしてギャンブラーとしての威風が漂っているからである。
博打は勝ったり負けたりだ。中には勝ち続ける人がいるかもしれない。しかしそういう奴は、金の代わりに体をなくしている。勝ち続けても丈夫な人もいるのではないか。そういう人はきっと、人間をなくすのだろう。これは映画中盤の会話である。博打とは、常に誰かが何かを失うことで成立する。金、女、土地、命。多くの大切なものをすり減らし、手放しながら、男達はそれでも卓を囲む。一切を省みぬ彼らの姿は、ある種の野生的な気高さが感じられるのである。