まるごと一緒に
子供のころ、酔っ払った叔父に半ば無理やり、お酒を飲まされたことがある。
そのころの僕は当然だけどお酒なんか詳しくなくて、でも飲んだ瞬間の言葉に表せない気持ち悪さとか、遠のく意識の向こうで聞こえた「何やってんの良弘!」という二重の声だったりだとかから、子供に飲ませるもんじゃないような強いものだったんだろうな、なんて今になって推測したりする。
あの一件以来、お酒を飲む席に僕が入らないように見張る役がいたんだよ、まったく良弘はお酒を飲むと見境なくなって困る、って、成人を迎えた初めての夜に母や祖母の愚痴を聞いて、お酒には気をつけないと、って20歳なりに肝に命じたその時の僕は、サークルの飲みでも付き合い程度に飲むくらいで、大体は介抱役に回るようになった。
人に迷惑をかける人間にはならない。それが僕のモットーというか、何かアクションを起こす時に真っ先に考えることで、例えば少し体調が悪くても、仕事を頼まれていたのなら少しの体調不良は押して、仕事を終わらせてから休むようにしたりとか。高校のなんとか委員に推薦されて「お前しかいないんだよ~!」とか泣きつかれた日には、なんだかんだ言いながら引き受けていた。まぁ、こういうとただのお人好しでしかないような気もするけど。
そんな感じで、誰にも害を与えないように、影をこそこそと動きながら生きてきた僕にとって、お酒というのは忌み嫌うとまではいかなくとも、あまり人生をともにする存在とはならないだろう。つい最近までの僕は、そんな風に思いながら生きてきた。
「はー、終わった終わったー」
「あー、出席きちんと出るだけで単位来るとはいえなー、ちょっとこの時間まで講義ってのがだるいよなー」
「なー……。あっそうだ、明日なんも用事ねーならさ、飲み行かね?新しい居酒屋、見っけたんだ」
「マジで?」
「おぉ、ちょっと駅から歩くんだけどな。飯が美味そうだったんだよな」
「あ、それいいな!酒メインのとこってどうしても飯がイマイチだしなー。いいぜー、行くか!……お、袖谷も来るか?」
「……あー、悪い。ちょっと今月、金がギリギリでさ」
「ん、そか。また来月になったら誘うわー」
「おー、気使わせて悪い。またよろしくな」
「気ーにすんなって!一緒に行きてーってなったらいつでも行ってくれよ!」
「そーそー!んじゃ、またなー!やー、有田のおすすめってなったら期待しちまうな……」
……盛り上がりながら遠ざかっていく、有田と松原の会話をよそに。僕はおもむろに、身支度を再開する。
普段から馬鹿話で盛り上がる男友達2人。高校からの知り合いで、長い付き合いの中で腹を割ってなんでも話す仲になっていった。けれど、最近は彼らにもちょっとした嘘をつくようになった。なんだかんだと所得制限ぎりぎりまで働いてしまう性格と無趣味のおかげで、1回や2回の飲みくらいでダメージを受けるほど僕の財布はやわじゃない。
別に、この2人とお酒を飲むのが嫌いな訳じゃない。でも、今日の夜、僕は、友達と駄弁る機会を蹴ってでも行きたいと決めていた場所があった。
大学から最寄り駅まで、ゆっくりと歩を進める。彼らはここから件の居酒屋で2人、どんちゃんと盛り上がりながら飲み明かすのだろうけど、僕はそこから電車に乗って、一駅だけ移動。
降り立った駅から、徒歩4分。ビル街を抜けたような抜けてないような、静けさと喧騒の境目みたいな場所に、それはある。
『Bar Red Moon』
からころと音を鳴らしながら、その建物の扉を開くと、目の前に木彫りのカウンターが、大きな存在感を放っている。大小さまざま、種類も残量もまちまちな酒瓶が5、6本乗っている以外に物はなく、木製にもかかわらず金属のようにぴかぴかと光るように見える。決してそれは、幻覚や照明の補正のせいだけではないだろう。上面だけでなく、細部に至るまでどこにも塵一つ、汚れ一つついていないことが、その証明だ。
壁には、かちかちとやたらに大きな音を立てて時を刻む古時計や、僕には理解の及ばないような奇怪な絵画がいくつかあり、そのどれもが自身の存在感だけを誇示するように、ばらばらと並んでいる。そして、そんな凸凹としたインテリアの並ぶ空間に、街中では決して流れないような、マイナージャンルであろうローテンポの音楽が不思議と馴染み、いまにも崩れそうなそのミスマッチを、ギリギリで支えている。
そして、そのミスマッチの中心には、このバーのマスターがいる。どこか浮世離れした、世界の真実を全て掌握した魔導師のような、そんな雰囲気を漂わせて、カウンターの中からこの空間を支配している。入ってきた僕のほうをちらりともせず、でも僕が右端のカウンター席を取ったが早いか、僕が好んで飲む度数の低いカクテルをすいっと差し出してきたことが、存在を認識してくれているという証拠であり、また彼にとっての意思表示なのだろう。
僕はぼそぼそっとマスターには聞こえないだろうなと自覚できる、そんな小さい声で礼の言葉をつぶやいて、カクテルに口をつける。コンビニで買う缶チューハイとは違う、フレッシュな果実な香りがする。新鮮な果実とそれに合うお酒で、丁寧に作られているんだろうなということくらいは、お酒には疎い僕にもわかる。
……しばらくすると、弱い度数とはいえある程度の酔いを感じるようになる。その酔いは、僕をこの不思議な空間の不足部分にぴたりとはまるような存在にさせてくれる、そんな感覚を引き起こして、高揚感とともに落ち着きを僕に与える。このバーと同体となり、しかし意識は独立したままで。
居場所を見つけた僕の心身は、ゆっくりとこの、非現実の空間に混ざり合っていく。……
……遡ること、およそ一ヶ月ほどだろうか。僕は、大学の最寄駅から一駅上った駅にいた。大学の最寄りにも家の最寄りにもなかった専門書を探すためである。
学生にしちゃ安い買い物じゃないんだし、授業で1週間に1回使うか使わないかなら貸し借り可でいいような気はするんだけれど、そのことを教授に直訴したところで覆る可能性なんてどうせまれだろうし。そう諦めをつけて買い出しに来て、2軒目の本屋で予約を済ませた帰り道で、その人物と出会った。
「ちょっといいかな、お兄ちゃん。道を教えてほしいんだけど…」
その人は、どこか子どものようなわがままさと自由さを、社会的体面で隠しているような、言わば放浪人とビジネスマンの中間といった雰囲気を持つ、不思議な中年男性だった。
聞けば、この街に旧知の友人がいるのだという。遊びに来てくれと手紙が届いたから、せっかくの機会だからと尋ねてみようと思ったはいいが、最寄りのこの駅まできたところで道がわからなくなった……と、こちらが聞いてもいない情報を彼は僕に教えてくれた。
「えっと、今この道のここにいるんですね。それで、ここをまっすぐ行くとこのショッピングセンターが右側に見えてくるはずなので、そこを…」
「えと、ここをこうかい?」
「違います、この1つ先で…」
提示された場所は、これから電車に乗って帰宅するだけだと意志を固めていた僕にとって、直接案内しようとすぐに思い立つにはいくらか遠すぎるそれであった。言葉だけで行き方を説明することは苦手ではないし、今回は地図があったから自分でも分かりやすく説明できているほうであったけど、地図を読むのが苦手だと言っていたその男性は、隠していたはずの年不相応な姿を見せ隠しさせつつ、僕と地図を交互に見ていた。不安だからついてきてほしいと甘える、子どものように。
結局、特に急いだ用事もない僕は、その人を目的地まで送り届けることにした。お人好しと言われるのはこういうところが原因なんだろうな、とか頭の中で反芻しながら、たまに訪れるその街を初対面の人と歩く。
……やがてたどり着いたのは、近くのコンクリのビルとは対照的な、温かみを感じるデザインの建物だった。表の立て看板のメニューを見る限りだと、バー……なのだろうか。
繁華街にあるようなごてごてとしたネオンや装飾がなく、扉に『Bar Red Moon 営業中』という板がかけられてなければ、立地的にも隠れ家的カフェとして雑誌に取り上げらたりしそうな、そんな印象を受ける。もし先入観なくこの建物を見せられれば、あるいは一般の住居と誤認するかもしれない。
たどり着けた安堵からか、その男性は急に饒舌になり、独り言だか僕に向けてるのだかわからないような音量で話し始めた。
「悪いねー手間かけさせちまって。ったく康夫のやつ、こんなわかりにくい場所に店立てて何がいいんだか。人も集まりにくいだろうし……」
「あ、あの……大丈夫ですかね、僕はここで……」
「おぉ、そうだお兄ちゃん、せっかくだしお礼したいんだけど、時間大丈夫か?つーか、酒飲める年か?」
「え、いや別に大丈夫です…。僕もただ暇だっただけなので…」
「遠慮してるなら気にすんなって、おじさんが奢ってやるから。な、な?」と、半ば強引にぐいと腕を掴まれ引き寄せられる。……今思えば、完全に不審者に絡まれているようにしか見えない。
路地裏とはいえ、近くには人の少なくない大通りがあるから、ここで大声を出して逃げるということは不可能じゃなかったはずである。
でも、そのときの僕は、なんの気の持ちようだったのか。その男性に、興味を抱いていたのかもしれない。その隠れた無邪気さに身を任せてみたいと、そう思っていた……のかもしれない。
為されるがまま僕は、そのバーへと足を踏み入れる。からんころん。
……その空間に入るなり、僕が覚えたのは、危うさだった。
僕がこの空間に収まってあげないと、いつか正常さを保てなくなるんじゃないか、そう思わせるようなアンバランスさが、そこにはあった。
磨き上げられたカウンターと、整頓されているはずなのに雑然さを纏うインテリアの数々。
どちらとも単独では同じ空間内で反発しあっていて、何か他の要素……客がいることで、初めて調和をなし、完成するような。
バーのマスターと思しき人物は一瞬こっちを見たようだけど、すぐに手元に目線を落として作業に戻る。さっきの男性は、これまた子どものような笑顔を僕に向けている。まるで何かを期待しているように。
……それから、僕はそこで何を話し、何をしたのだっけか。僕はほとんど覚えていない。
それすら、記憶と定着せずその空間で霧散するほどに、そこと同化していたのかもしれない。
でも、その空間がきっと僕の存在を求めていて、そして同時に、その空間にいることで、僕が今までと違う姿で居られるということ、その事実だけははっきり覚えている。
そこには、今までの僕が知らない、知るべき何かがあるのだろうか。そんなふつふつと浮かんで消えない疑問の答えと、確かに覚えている心地よさを求めて、僕はこの日もう一度、あのバーを訪れようと決めたのだ。