海の仙人

 

こんな読書体験もたまにはいいな、と思った。

登場人物の誰もがちょっと不幸で、人並みに孤独で、読んでいて息苦しさを感じない、心地よい、それこそ「海」を泳いでいるような感覚が読後にじんわりと残った。

宝くじが当たって仕事を辞めた主人公の河野と、彼の元同僚で河野に思いを寄せる片桐、河野と相思相愛でキャリアウーマンのかりん、そして、役立たずの神「ファンタジー」。絲山秋子が描く人物たちに、私たち読み手が抱く、親近感や同情とも異なる不思議な感情を、言語化することは難しいが、読み進めていくうちに、登場人物たちが、どこか読み手に寄り添ってくるようだった。普段だったら、素直な気持ちで受け入れることのできないような理論や言葉も、彼らの口から発せられると、なぜか頷くことができるような説得力があった。その中でも、ファンタジーが放った「幸せってなんだ」ということば。神様の貴方がわからないものを人間なんかがわかるはずないし、そもそも「幸せの定義」の議論なんてナンセンスなのよ、とツッコミを入れたくなるけれど、それに続く片桐のことばが腑に落ちすぎて私のつまらない小言も引っ込んだ。

「(幸せとは、)過去を共有することなのか」—「ありのまま、を満足すること。だから過去に問題があるならそれはそれでつぶさなきゃ」……さすがは片桐女史。いや、さすがは絲山女史。ともすれば、説教じみた台詞になりかねないことばを、登場人物の力で、私たち読者の心にストンと落とし込んでくる。上からでも、下からでもなく、同じくこの世の中を生きるものとして、媚びない立場から、静かに、まっすぐ、暖かく発せられることばが作り出すストーリーに魅了された。

絲山秋子は、自分のしらないどこかで生きる読者の懐に飛び込んでいくような、勢いと人懐っこさを兼ね備えたタイプの作家ではない。しかし、読み手と程よい距離感を保ちながら、勇敢に言葉を紡ぎ、私たちをどこか前向きにさせる、とても頼り甲斐のある作家だ。

いつか孤独と正面から向き合うことになったとき、わたしの前にも「ファンタジー」が現れて欲しいと思った。

 

(フクシマユズノ)

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