kadai

    夏の名前
                         野田 逸平

 うだるような天気の中で偶然見つけた緑の下のベンチに僕は腰掛けた。この東京という町は自分がロボットなのではないかと錯覚してしまうほどに無機質な町である。立ち並ぶ高層ビルは見るものを楽しませる気など全くなく歩いている人たちは皆同じような格好をして同じような姿勢で歩いている。僕もその中の一人にすぎない。夏のうだるような気温の中着たくもない背広を着て締めたくもないネクタイを締めいろんな会社に行き頭を下げて営業をしている。大人になってから本当に夏が嫌いになった。昔は夏があんなに待ち遠しかったのにいつからこんなに夏が嫌いになってしまったんだろうか。空を見上げてしばらくぼーっと考えていた。
 時計を見ると思ったよりも時間が経っていた。ネクタイを締め直して僕はまた次の会社へと歩き出そうとした。その時僕の後ろからビルの間を通って一筋の風が吹いた。懐かしい草の薫りがして僕はふと昔を思い出した。
 人間というものは何かのきっかけでふと昔の記憶を思い出したりするものだ。それは歌であったり匂いであったり様々である。いかに印象に残っているような出来事であっても日々生活して行く中で常にそのことを考えながら生きている人はいないのではないかと思う。時間が経っていく中で記憶というものはだんだんと薄れていきあまり印象に残っていない記憶は完全に消え、印象に残っているものであっても何かのきっかけが無いと思い出さなくなるものである。
 僕の場合このきっかけにあたるのがこの風だった。思い出したのはまだ自由に憧れていて先のことなど考えていない、夏を嫌いになる前の幼い頃の記憶だった。僕がまだ山梨県に住んでいた中学二年生の頃の夏の淡い記憶だ。世間的に言う初恋の記憶というものだ。
 この頃の僕はまだ何も知らない子供で人を好きになるということについてもまだはっきりとはわかっていなかった。将来のことも何も考えず毎日ただただ自分のしたいように生きていた。こんな自由な僕に小学生の頃からくっついてきていた物好きな幼馴染がいた。石川恵里という名前でとても明るくていつも笑っている子だった。小学生の頃から知っているということもあって恵里を女の子として見たことは無かった。いつも一緒にいた彼女は兄妹のような存在であった。中学二年生という思春期に入った僕は恵里に対して今までとは違った感情が芽生えていることに気づいてはいたがそれが何なのかはまだわかっていなかった。この感情に初めて気づいたのはいつものように恵里と一緒に学校から帰っている時だった。彼女が突然僕に買い物に付き合ってほしいと言ってきた。特に予定のなかった僕は何も考えずに買い物について行くことにした。恵里が言うには新しいスニーカーが欲しいから買いに行きたいということだった。田舎に住んでいた僕たちはバスに乗って少し遠くのショッピングモールへ行くことにした。
 ショッピングモールについた僕はすぐに靴屋に行こうとしたが恵里は靴屋ではなく他の服屋やゲームセンターに僕を連れ回した。彼女はすごく楽しそうで僕もとても楽しかった。映画やドラマで見るカップルのデートみたいだと思った。そしてようやく靴屋に来た僕たちは二人で彼女の靴を選び白いスニーカーを買った。靴を買った僕たちはショッピングモールを出ようとしたがトイレに行きたいから外で待っていてと言って彼女は中に戻ってしまった。しばらく待っていたがトイレにしてはあまりに長すぎると思い探しに行こうとした時ちょうど彼女が店から出てきた。何か違和感があると思ったらさっき買った靴屋の袋が2つに増えている。僕のそばまで来たところで片方の袋を僕に渡してきた。買い物に付き合ってくれたお礼だそうだ。袋を開けてみると中にはさっき彼女が買った靴と同じものが入っていた。お揃いだよと言って笑う彼女を見て僕は自分の中に今まで感じたことの無い感情が芽生えるのを感じた。胸の中が痛いような不思議な感じだった。
 それから学校で見かけた時一緒に帰る時も変に意識してしまってなかなかうまく話せない日が続いた。恵里はというと前と何も変わらず明るく僕に話しかけてきた。お揃いで買ってくれたスニーカーは恥ずかしくて履けないままでいた。そして中学二年生の夏も半ばを過ぎた頃恵里に遊びに行こうと誘われた。とても嬉しくて前の日はドキドキして眠れなかった。この頃からこの感情が恋なんじゃないかとなんとなく気づき始めている自分がいた。
 近所のファミレスに行ってご飯を食べて映画を見に行った。中学生でお金も全然なかったので貯金していたお小遣いを少し崩してきた。靴のお礼にと映画を奢ってあげると彼女はとても嬉しそうだったがなんで靴履いてくれないのと言ってほっぺたを膨らませていた。うまく理由も言えず笑ってごまかしてしまった。映画を見終わり辺りはもう暗くなっていたので彼女を家まで送って行くことにした。なかなか会話が続かず気まずい雰囲気が流れていた。一緒に歩いていてなんだか距離が近いなと思っていたらふいに手を握られた。彼女の顔を見るとそっぽを向いていた。僕は思わず立ち止まり彼女に声をかけた。もし僕のことが好きなら付き合ってほしいと言った。今考えるとなぜそんなことを言ったのか、もっとかっこいい告白の台詞があったのではないかと色々後悔しているがその場は頭が真っ白になっていて考える余裕も無かった。しばらくの沈黙の後彼女は小さく頷いて好きですと言った。恵里が彼女になった。その時は全くと言っていいほど実感が無かった。そしてそこからお互い何も話さず彼女の家に着いた。じゃあねと一言だけ言って彼女は家に入って行った。
 次の日学校に行くともうすぐ夏休みが始まるということで教室がいつもよりざわついていた。僕も恵里も付き合ったということは誰にも言わずなんだかお互い話す時もぎこちなくなってしまった。授業が終わると何人かの友達から夏休み遊びに行こうと誘われたが曖昧に返事をしておいた。頭の中では恵里の夏休みの予定はどうなっているのだろうというということでいっぱいだった。これまでの人生もちろん彼女などできたことがなかったし女の子と二人で遊んだ経験もほとんどん無かったのでどうやって誘えばいいのかどこに遊びに行けばいいのかなど全く検討がつかなかった。いつもは普通に学校の帰りに一緒に帰ろうと誘えていたのになんだかうまく声がかけられず校門の前で待っていることにした。すると恵里が学校からでてきて僕に気づいてこちらに走ってきた。教室にいないから先に帰っちゃったのかと思ったよと言って笑った彼女は今までよりも本当にかわいく見えてまた胸の奥に変な感じがするのを感じた。
 二人で一緒に帰っている時は今までのように自然に話すことができた。夏休みの予定を二人で話したが結局今まで遊びに行った場所とそんなに変わらない場所ばかりにいくことになりそうだった。お互い中学生でお金もないというのがもどかしかっった。一緒に帰っている時間は本当に楽しかったが時折彼女が見せるどこか悲しそうな表情が少し気になった。そして彼女を家まで送って僕も家に帰ることにした。あの日から彼女と一緒にいない時もずっと彼女のことばかり考えていた。高校生が持っている携帯電話というのを持っていれば一緒にいない時でも彼女に電話ができるのにとも思ったがそんなものを買うお金などあるはずも無くもやもやとしたまま晩ご飯を食べて寝床についた。
 僕と彼女との付き合いは手をつなぐことも無くもちろんキスもせず周りの友達にもこの関係を話すこと無く続いていた。学校帰りや休日に二人で過ごす時間は友達と過ごしている時間とは違った楽しさがありとても新鮮なもので僕としては何の不満も無く幸せに過ごしていた。しかし彼女は発展していかないこの関係に焦っているようだった。僕には彼女がなにを焦っているのかわからなかったし二人にはまだまだ時間があると思っていた。
 そして夏休みに入り自由に恵里と遊べる時期が来た。とはいえ特にイベントも無く学校がある時期とは変わらない日々を過ごしていた。そんな中夏休み中の一大イベントがやってきた。夏祭りである。今まで学校の友達も含めてなら恵里と夏祭りに行ったことは何度もあったが二人で行くのは初めてで前日からなんだか緊張してしまった。当日になり僕は持っている甚平を着ていくことにした。彼女は浴衣を着てくると言っていたが今までも彼女の浴衣姿を見たことは無かったのでとても楽しみだった。待ち合わせ場所に20分ほどはやく着くとすでに彼女が待っていた。彼女は白地にピンクの花柄のいかにも女の子と言った雰囲気の浴衣を着ていて普段下げている髪の毛も上げていてまるで別人のようになっていた。ずいぶん早いねというと彼女は言うことはそれだけ?と言ってきた。僕は恥ずかしかったが浴衣すごく似合ってるよと言った。彼女はその言葉を待ってたんだぞと言って笑ってくれた。今日のお祭りでは花火が上がるのだがそれまで時間があったのでとりあえず出店を見て回ることにした。
 お祭りの会場には様々な出店が出ていた。金魚すくいにりんご飴やチョコバナナといった定番のものから鶏皮焼きや富士宮焼きそばといった変わり種の店も出ている。彼女は美味しそうな食べ物に目を輝かせてあれが食べたいこれが食べたいと言って走り回っている。僕がくじ引きの出店をぼーっと見ていると彼女があっちにある綿菓子が食べたいと言って僕の手を引いた。普段は全く意識しないが今日は手を触れたことが少し恥ずかしかった。綿菓子屋の前に着いても彼女は僕の手を離さなかった。ちゃんと手をつないだのが初めてでなんだかドキドキした。そして花火の時間になり二人で河原に座り花火が上がるのを待った。花火が上がるのを待っている間も手は繋いだままだった。
 予定よりも少し遅れて花火が上がった。赤や青など様々な色の花火が大きな音をたてて綺麗に空に咲いていった。僕も彼女も無言で空を見上げていた。たくさんの花火が上がっていよいよクライマックスという感じになってきた。今までよりも大きく派手な花火が上がり周りの人たちも空に夢中になった時、僕は彼女の肩を叩きこちらを向いた彼女の唇にキスをした。一瞬であったが初めての感覚でキスとはこういうものなのかと衝撃を受けた。彼女は目を見開いて驚いた様子だったが少し間を置いて微笑んだ。花火の光に照らされた彼女の笑顔は今まで見たなによりも綺麗だと思った。そして花火も終わり彼女を家まで送っている途中彼女から話があると言われた。彼女はとても申し訳なさそうに僕に真剣に話をしてくれた。簡潔に言うと親の事情で夏休みが終わる頃に遠くへ引っ越してしまうということだった。一瞬現実が受け入れられなかったがとりあえずその場はわかったと言って家に帰ってから考えることにした。家に着いてベッドに横になり目を瞑ってしばらく考えた。引っ越してしまうということはもう遊ぶこともデートに行くこともできなくなってしまう。これからいろんな思い出を作って行くはずだったのにそれもできなくなってしまう。考えれば考えるほど鼓動が早くなって不安に押しつぶされそうになる。もう寝てしまおうと思い部屋の電気を消した。
 しばらくしてようやく眠りにつきそうになった時部屋に親が入ってきた。せっかく眠れそうだったのに何の用かと思い少し不機嫌になりながら身体を起こした。親が小さな箱を持ってきた。見てみると携帯電話が入っていた。話によると学校から最近不審者の目撃情報が多くなっているのでなるべく子供に携帯電話を持たせるようにとの話があったので買ってきてくれたそうだ。最小限の電話とメールの機能だけが付いたものだったがこのタイミングで携帯電話を持てるのは涙が出るほど嬉しかった。
 次の日彼女に会いに行くと彼女も親に携帯電話を買ってもらったということだった。早速電話番号とアドレスを交換していつでも連絡が取れるようになった。いつも通りデートが終わり彼女を家まで送り自分も家に帰り彼女と次のデートの予定に着いてメールをしていた。お互いに引っ越しの件については話さなかった。僕もなんと言っていいのかわからないでいた。次のデートは少し遠くの大きなプールに行くことになった。恵里の水着姿を想像して少しにやけていると親から彼女でもできたのと冷やかされた。部屋に戻り明日のプールの準備をして寝床に着いた。
 待ち合わせのバス停に着いて少しすると彼女が来た。夏らしく青のワンピースに白いサンダルを履いていた。バスに乗り込みしばらくしてプールに着いた。夏休みということもありプールは家族連れなどで賑わっていた。しばらく二人で泳ぎ少し疲れたのでプールサイドで休憩することにした。二人でプールで泳ぐ人たちを眺めながらしばらくの沈黙の後彼女が引っ越しについての話をしてきた。東京の方に引っ越すことになっていることやもうこっちには帰って来ないということなどを話してくれた。僕は思い切って二人で遠くに行かないかと言った。よくよく考えると中学生という何の責任も持っていない頃だったからこその無茶な考えだったと思う。彼女は意外にもいいよと言ってくれた。正直自分でも馬鹿なことを言っているのはわかっていたのでいいよと言ってくれたことに驚いた。自分と一緒にいたいと思ってくれている彼女が愛おしくなって彼女の手を握った。彼女は強く手を握り返してくれ僕たちはぎこちなくキスをした。
 プールから帰り二人で逃げるための計画を一緒に考えた。この頃の僕たちは本当に子供で良い計画など考えられるはずも無く結果的にできたのはなんの計画性も無いただただ遠くに行くというだけの行く当ての無い計画だった。それでも僕たちはなぜか根拠の無い自信だけは持っていた。計画の当日まで色々と話して行く中で二人の距離はさらに縮まっていったように思えた。
 そして計画当日僕は自分の分と彼女の分の遠距離バスのチケットを握って彼女が来るのを待っていた。僕の大きな鞄にはあまり荷物が入らなかったので彼女がかっこいいと言ってくれたお気に入りの服だけを入れてきた。待ち合わせの時間になっても彼女の姿は現れない。不安になりメールをしてみたが返事も返って来ない。10分経ち30分経ちバスの発車時刻ギリギリになったが彼女は現れない。家には親宛に家を出るという内容の置き手紙を置いてきたのでのこのこ家には帰れないという中学生特有のプライドもあったので家には帰れなかった。すると彼女から着信が来た。恐る恐る出てみると泣いているようだった。何度も何度もごめんなさいと小さな声で繰り返していた。とりあえず落ち着かせた後話を聞くと。家を出る直前に親にばれてしまい来れなくなってしまったらしい。彼女は何度も謝ってきたがどうしようもないことは僕にもわかった。僕はまたどこかで会えるよと思ってもいないことを言って電話を切った。バスの発車のアナウンスが流れ始めた。僕は彼女の分のチケットを手に握ったままバスに乗り込んだ。自分でもどうしていいのかわからなかった。遠くに行く理由などもう無いのに遠くに行くしかないとなぜか考えていた。
 バスが走り出し不安が一気に押し寄せてきた。やりきれなくなった僕はバスの窓を開けて彼女の名前を叫んだ。意味が無いのはわかっていたがこうでもしないと心が潰れてしまいそうだった。開けた窓から入ってくる草の薫りが彼女のことをより鮮明に思い出させた。
 結局僕は何日か経った後行った先で途方も無く歩いているところを警察官に補導され家に送り返されることになった。親にはとても怒られたが何を言われたかは全く覚えていない。彼女はもういなくなっていた。
 こうして僕の初恋は淡い記憶になってしまった。大人になった今だからこそあの頃の自分自身の若さは本当に羨ましいものだと思う。今ではたくさんのものを背おい何に対しても守りに入ってしまっている。夏が嫌いになったのではなくてきっと自分のことが嫌いになってしまったんだろうなと思い少し悲しくなった。
 思い出に浸っている場合ではないなと思い、また歩を進め始めたとき川の上を通る橋の真ん中に青いワンピースを着た女性が見えた。思わず僕が駆け寄ると彼女は潤んだ瞳でこちらを見て優しく微笑んだ。
                                  完

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