僕らの海(青)

僕は海が嫌いだ。

綺麗だと思うし、たくさんの人が楽しめるレジャーのような意味でもいい場所だと思う。

それでも僕は海が嫌いだった。

「泳げないの?」隣に座るやはぎが言う。「だったら山の方がよかったかしら」

そういうことじゃないと否定する。泳げないことはない、むしろプールなどで泳ぐことは好きな方だ。

走る電車の窓から外を見ると視界の大半が海色に染められた。所々で太陽の光を反射し眩しさを感じるほどに輝いている。

それでも海は怖い場所だ。陸から見た海は僕らを歓迎するかのように輝き、波をうち、カモメの声、まるでファンファーレを奏でているように感じられる。だが、いざ沖の方に出てみるとどうだろうか。何もない、輝き、人の声、波の音、何もない。そんな場所に取り残され、必死に浮いた木材にしがみつきながら生きながらえる。海とはそんな地獄がいつもどこかで人間を苦しめているような場所なのだ。

そんなことを僕が考えたところで電車は海に向かって走ることをやめるわけじゃない。どんどん海は大きくなり、それにつれて車内の乗客の盛り上がりも増していった。

「やっぱり海はいいわねー」窓を開きながらやはぎが呟く。「この香り、落ち着くわ」

開かれた窓から入ってきた微かな潮の香りを鼻で感じた。生物としての本能なのだろうか、確かに心地よい。

「着いたらまず旅館に行きましょ、海で遊ぶのはその後ね」

「遊ぶのか、海で」

思わず声が出てしまった。海に入らなければならないのか。あまり喜ばしいことではない。

「大丈夫よ、海で遊ぶと言っても色々あるから。砂浜でお城を作ったりとか」やはぎは指で数えながら様々な遊びを提案する。

砂遊びくらいならと僕は承諾したものの、やはり海に近づくことは嬉しいことではなかった。

その後少しすると電車が駅止まる。電車から降りると先程よりもいっそう潮の香りを感じられた、少し目にしみる。

「ほら、やなぎ、見て」やはぎの指の先にはどこまでも、どこまでも広がる海。

しかし僕の目を奪ったのは海ではなくそれを眺めるやはぎだった。

肩甲骨あたりまで伸びたポニーテールが海風で揺れている。服装は白いTシャツに青い薄手のカーディガン、下にはラインが出るデニムと簡単な格好ではあったがそれでもやはぎはゆく人ゆく人の目を奪う程に美しかった。

「そろそろチェックインの時間だ。行こう」海を眺めるやはぎの手を引き、駅を出た。

駅の前は家族づれ、カップル、老年夫婦など様々な人々でごった返していた。駅前のバス停を見てみると高いお金を払ってでもタクシーに乗りたくなるような列ができていたが、幸い僕たちが泊まる旅館は駅から歩いて行くことができる程度の距離だった。

せっかくだから商店街を眺めたいというやはぎの提案を汲み、僕たちは駅前から入ることができる商店街を通ることにした。

屋台、装飾品店、呉服屋、八百屋、魚屋。商店街の中は様々な種類の店が立ち並んでいて、海水浴のシーズンのせいもあってか地方の商店街とは思えぬほど活気づいていた。

ふとどこからか醤油が焦げたような少し煙たくも香ばしい香りが鼻を刺激した。

「あそこね」やはぎがある店の方を指差す。「ちょうどお昼時だし、行ってみましょ」強引に僕の腕を掴んでは人並みをかき分けて進んで行く。

匂いに関して、僕は潮の香りのことを完全に忘れていた。商店街には様々な匂いが立ち込めていて、海の隣であるにも関わらずそれらの匂いが完全に海から発せられる潮の香りを上書きしていたからだ。

僕は少し面白いなと感じた。人々も同じように、海の近くでは海で遊ぶという同じ目的を持っているが、いざ商店街に入るとそんな意思は上書きされ、料理を食べるや、服を買おうなどの多種多様な意思と化してしまう。今現在、僕の腕を引っ張っているやはぎもそうなのだろう。

「焼きおにぎり」目の前に現れた店の看板にはそう書かれていた。なるほど先ほどの醤油の香りは焼きおにぎりのものだったのか。そんな今となっては当たり前のことに一人で納得していた。店構えを眺めていると店頭にはA4サイズの小さなメニューが貼り出されていることに気づいた。焼きおにぎり一ケ百円、安い。やはぎの言う通り時計はもう昼飯を食べるような時間を指している。ここらで軽く食べておくのもいいかもしれない。そう思い、僕は行動に移そうとした。

「はい、やなぎの分」

差し出されたものは二つの焼きおにぎり。差し出していないもう片方の手には一つの焼きおにぎり。お礼を言いながらやはぎを見ると何やら咀嚼しているらしい。どうやら二つずつ焼きおにぎりを買ったようだ。

「歩きながらものを食べるな」僕は受け取りながらやはぎに言う。食べ物で遊ぶことと歩きながら食べることは食べ物に対して失礼な行為だ。いくらやはぎでも見過ごすわけにはいかない。それを聞いたやはぎは素直に頭を下げ、近くに設置されていたベンチに腰掛ける。

「海に行かずにこの商店街で食べ歩くっていうのもなかなかいいかもね」ベンチから商店街を流れる人並みを眺めながら言う。「やなぎも海が嫌いみたいだし」

「やはぎが海に行きたいって言ったから来たんだろう?」やはぎの言葉は冗談だとわかっていても少し不安になる。「なるべく我慢するから今回はやはぎの好きなように行動してくれ」

やはぎはそうさせてもらうわと呟きながらベンチを立ち、伸びをする。「さ、そろそろ旅館に向かわないと待たせちゃうわ。行きましょ」もう食べ終わったのか。

僕は手元に残っていた焼きおにぎりをバッグに入れていたお茶で一気に流し込み歩き出した。

 

商店街を抜けると旅館までは少し階段で山を登る形だった。旅館へ歩く観光客が多いのか道路が歩道までしっかりと整備されている。それでいて景観を損なうことのないように自然を潰すことを最小限にとどめていることがまず最初に感じたことだ。

山道というからには結構な斜面だ。気温は立っているだけで肌が段々と汗ばむ程の暑さ、体力が徐々に失われていくのがわかる。少し休みたい。

やはぎはそんな様子の僕に気づいたのか五メートルほど前から速度を落とし、僕の隣まで来た。

「ごめんなさい、荷物をほとんど持ってもらって」そう言ってやはぎは手団扇で僕の顔を仰ぐ。「あと何分くらいかしら」

「駅から徒歩十五分ってあったからあと二、三分かな」そう言って再び視線を景色に目を向ける。「あっ」思わず声が出た。

やはぎは「どうしたの」と聞いて来たがすぐに僕が見たものに気づいたらしく、僕と同じように感嘆の声を上げた。

階段に沿うように植えられていた高木樹林が終わり、低木樹林の並木になったことで海原が僕たちを迎えた。先ほど電車内から見えたものと同じものであるけれど、今現在いる高所から見た海にはまた違った印象を持った。水平線が遠くに見えるせいか先ほどよりも海がどこまでも続いていることを強く実感した。

「いい風ね」

「高いところにいるし、そのせいかもね」

「あ、ほらあそこの浜辺見て。人すごい」指先に視線を移すと海水浴場が見える。

もう泳ぐ場所がないんじゃないかと思うほどの人だ。砂浜も色とりどりのパラソルでほとんど砂が見えない。遊泳禁止区域にまで出ている人たちの気持ちも少し理解できてしまうような気がする。

「あそこで遊ぶのはちょっと気がひけるわね」やはぎも同じような感想を抱いたようで少し顔が引きつっている。「もう今日は宿でゆっくりしましょうか」そう言ってやはぎは僕の返事を待たずに歩き出した。

多少強引であったとしてもこうやって優柔不断な僕を引っ張ってくれるやはぎには常々感謝している。

やはぎとは数ヶ月前まで働いていたバイト先、のような場所で知り合った。それから彼氏彼女の関係でお付き合いさせていただいているがこれからの関係はお互い何も考えていない。

階段を十分程登った頃、僕らが宿泊する宿がやっと見えてきた。木造瓦ばりの造り、平均的な日本家屋だが驚くのは大きさだった。有名な御寺と言われれば信じて疑わないであろう大きさだ。大仏が中にあっても不思議でない。

宿に入ると「女将」と名乗る女性が他の従業員を引き連れて迎えてくださった。こういう光景はドラマだけだと思っていたが本当にあるらしい。

部屋に案内されるまで、旅館の中を眺めていたが所々に古さを実感させる滲みが和に味を与えていると言えばいいのだろうか。日本人が確実に心地よさを感じる何かを感じた。見た所エアコンなどは設置されていなかったが暑さを全く感じない。聞けば木造であることにこだわり、通気性を高めているそうだ。海の近くであるせいで毎年部分的に改修しなければならないそうだが。

部屋に入ると僕らの担当の方が簡単に部屋の説明をしてくださった。やはぎはその間熱心に質問などをしていたが、担当の方がいなくなった現在、畳にだらしなく寝そべり、備え付けのお茶菓子を頬張っている。だらしがないと注意した所で「やなぎしかいない時しかこういう風にできないのだから、大目に見て」と言って直そうとしない。なめられてるのか信頼されているのかは分からないけれど、後者であることに期待したい。それでも僕が荷物の整理を始めるとすぐに手伝ってくれるあたり少なくともなめられているということはなさそうだ。

荷物の整理を終えると説明された設備を復習してみる。旅館内線が黒電話ということにこだわりの深さを実感する。実際に見たことがなかったので使い方がいまいち分からなかったが、やはぎがそういったアンティークなものには詳しかったこともありなんとかなった。黒電話だけではなく、備え付けの物の大体が旧世代機といえばいいのだろうか、例えば扇風機だ。まず宿泊施設の部屋に扇風機があることが珍しいのだが問題なのはその形だ。昨今の扇風機は羽根がなかったり、土台が薄かったりと場所をとらないことと安全を求めて設計されている。しかし今僕の目の前にある扇風機は羽根に指が触れないようにガードしている網目の一つ一つが大きく、女性の指ならすんなりと入れることができてしまう。土台も大きいし厚い。そして重い。少し持ち運ぶだけで指が鬱血してしまい、一時的に指の色が変わってしまうほどだ。テレビもブラウン管テレビで本当にひと昔前に戻ってきたかのような錯覚に陥りそうになる。しかしその感覚が自分に心地よさを強く促していることにも気づいた。

しばらく僕ら二人は何も話さずに畳に寝そべっていた。先ほどまでは気付かなかったがどうやら窓には風鈴が飾られているらしく涼しげな音を断続的に発していた。その音だけが耳に入ってくる。ふと身を起こして風鈴を見上げてみると風に揺られているせいで時折光を反射して視界を刺激してくる。ガラス細工であろうとも宝石を知らない僕からすれば同じくらい綺麗なんだろうと思ってしまう。

「うちにも風鈴、つけてみようかな」自分としてはやはぎに言ったつもりで呟いてみた。しかし返事がない。隣で寝そべっていたやはぎの方を覗き見ると目をつむり規則的に呼吸を繰り返している。どうやら眠ってしまったらしい。道理で静かだったわけだ。

しかしこうなってしまってはどう行動したものかと考えずにはいられない。このまま暇をつぶしに商店街や海辺に出向いてしまっては後でやはぎに何を言われるか分からない。かと言って暇をつぶせるような道具を持ってきているわけではなかった。

「いいお湯だったねぇ」

ふと部屋の前の廊下からそんな声が聞こえてきた。そういえばこの旅館は温泉をひいてきているとパンフレットに書かれていたような覚えがある。

そうして僕は一人地下二階にある大浴場に向かうことにした。

 

脱衣所に入ると既に硫化水素による匂いが充満していた。よくこの匂いは腐乱臭と例えられることが、何故温泉の匂いとなると途端に嫌悪感がなくなるのか。無論僕もこの匂いは嫌いではなかった。

時計は午後二時過ぎを指していたせいか、温泉は人がほとんどいなかった。今頃旅館の客の大半が海にいたりだろう。

そういうわけで僕は今屋内の浴場を独り占めしている。他の客は皆外の露天風呂にいるらしい。長風呂をする予定はないけれど、この心地よさは少し長居したくなるほどのものだ。

視界は湯気で数メートル先も見えない状況だが、目を開けていても閉じているような感覚に陥ってしまい段々と眠くなってくる。風呂で眠る、という話はよく聞くけれど実はととても危険なことだと経験からよく知っていることだ。

結果から言ってしまうと溺れかけたことがある。風呂は溺れるような深さではないけれど、睡魔によって朦朧とした意識の中で呼吸ができなくなったときは本当に何が起こったが分からずパニック状態になった。風呂では眠らないほうがいい。眠くなったら大人しく風呂からあがろう。そうして僕は露天風呂には行かずに浴場から脱衣所に移動した。

着替えたはいいものの、結局三十分ほどしか時間が進んでいない。他に時間を潰す場所はないものかと悩んだ末、旅館を探検するという案を採用した。

まず玄関に戻ると新しい客が今まさに女将と仲居に迎えられているところだった。この旅館の仲居の服装は浅葱色一色の着物である。女将は濃い朱色の着物で一目でわかるようになっていた。旅館自体にも言えることであるが着物には細かいシワもなく客の目に入る部分には細心のこだわりを持っているということが容易に分かる。今現在室内用のスリッパを履いているがやはり旅館内に誇りなどを持ち込まないということ徹底してのことだろう。

玄関の隣には売店が設置されていた。この地域の特産品はもちろん、ちょっとした日用品まで売られている。何故日用品まであるのかと聞いた所、常連の客が何週間も泊まり続けることもあるためらしい。おみやげコーナーと書かれたポップの場所には様々なものが並べられていた。干物、梅干し、たくあん、羊羹まで。おみやげは荷物が多くなることを避けるために帰り際に買うつもりだが、今日の夜にデザートとして食べるのなら仕方ない、僕は羊羹を購入した。やはぎが寝起きに飲み物を欲しがる可能性を考え、一緒に飲料水も購入した。

予想外だった。まさかこの百パーセンが和で出来ているような旅館にこんな場所があったとは。

大浴場は地下の二階、では地下の一階には何があるのかと案内板を眺める。

「遊戯場」

書かれていたことはこれだけだった。これを見てこの旅館の様子を見ればせいぜい卓球台が何台か置かれているだけだろうと考えていたが、その予想は大きく裏切られた。

そして現在僕の目の前にはダーツ、ビリヤード台が並んでいる。部屋の雰囲気もこの階だけ全く異なるものだった。ほとんど灯りの類はなし、ビリヤード台を照らすものとダーツ台自体が放つ光のみだ。この旅館に泊まるような人たちには需要があるのかどうかが気になるところだ。今も客どころか仲居、従業員も一人としていない。機能しているのかと気になるので夜にもう一度来てみよう。

そろそろいい時間だろうと部屋に戻ることにした。この旅館で階を移動する手段は階段以外にはない、二階へ上がる階段でいつの間にか起きていたやはぎと会ったのだ。

「どこへいってたの?」長く伸びたポニーテール先端が様々な方向に伸びている。本当に今起きたばかりなのだろう。

とりあえず売店で買った飲料水をやはぎに渡してこれまでの行動を説明した。やはぎは時折「ずるい」「うらやましい」など声をあげていたがそれは眠ってしまったやはぎの責任だろう。そうして一旦僕らは部屋に戻るとこれからの予定を話し合おうとしたが、やはぎは眠ってしまった分すぐにでも行動したいとポーチに財布などを詰め込みはじめた。どうやらまた商店街を見て回りたいらしい。僕としては風呂で出現した睡魔に従ってしまいたかったが、それを言ったところでやはぎが許してくれるとは思わなかったので素直に従うことにした。

「おでかけですか」

旅館の玄関に降りると仕事がひと段落ついたような様子の女将に声をかけられた。

「はい、商店街に行こうと思って」早く行きたいのかやはぎが少し早口で答える。「何かおすすめのものってありますか」きっと食べ物のことだろう。

「そうですね、海沿いですから魚介類は全ておすすめできます。干物なんてどうでしょうか」やはぎの目が一層輝いた気がした。「あとは温泉饅頭などもございますね」

「わかりました。ありがとうございます。いろいろ見て回って食べてみますね」僕は女将にお礼を言う。やはぎも会釈をしてすぐに外履きに履き替えていた。

 

やはり外はまだまだ暑い。僕はキャペリンをバックから取り出してやはぎに手渡す。やはぎはお礼を言いながらそれを被る。「どう?」とポーズをとって見せてくるがとてもよく似合っている。

先ほど登ってきた階段を下っていると僕はあることに気づいた。野生のリスがいるじゃないか。駅、商店街からそれほど離れていない場所にリスがいるとは、少し羨ましく思う。やはぎもリスに気づいたのか足元に落ちていた木の実を掲げてリスを呼んでいた。

「流石に無理があるんじゃないか」僕はやはぎに言った。「ほら、リスも迷惑そうな顔をしてる」

それを聞いたやはぎは顔をしかめて僕を見ては木の実を地面に置いて歩き出してしまった。しばらく歩いた後に木の実の方に振り返ってみると案の定リスが木の実を咥えて走り去っていった。

商店街に着いてみると先ほどよりは人が減っていた。時計を見ると午後四時。日帰りの観光客はそろそろ帰路に立つ時間だろう。やはぎはそこが狙い目と言わんばかりに商店街を突き進んでいく。どうやら目的のものがあるらしい。

行き着いた場所には「イカメンチバーガー」と書かれた看板が設置されていた。やはぎがハンバーガー好きということは知っていたが、まさか旅行先でまでハンバーガーを食べるとは思いもしなかった。いや、まさかこのハンバーガーが目的で旅行先をここにしたということはないだろうか。

「ここでこんなもの食べて、夕飯たべれるのか?」ここで僕は気になっていることを口にした。「七時には旅館で夕飯が用意されるらしいんだけれど」

「大丈夫よ、心配ないわ。まだお腹は空いてるし」やはぎはイカメンチバーガーを頬張りながら答える。

確かに僕はやはぎの食欲を嫌というほど知っていることもあり、そこまで心配はしていなかったはずだが、それでもイカメンチバーガーを三つも購入しているところを見るとやはり少し心配になってしまう。

「夕飯後のデザートを探しに行きましょう」

イカメンチバーガーを三つ共全て体内に放り込んだやはぎが放った一言だ。

僕は「さっき買った羊羹があるじゃないか」と言ったが「あれでは単純に量、量が足りない」とナプキンで顔を拭くながら言われてしまった。これ以上何を食べるというのか。

「温泉街と言えば、アレでしょう」そう言ったやはぎについていき商店街を歩くこと数分。あれだけ食に積極的なやはぎが他の店に目を向けることもなく行き着いた店。温泉まんじゅう。

そういえばそうだ。そう僕は思った。温泉街といえばまずこれを考えるだろう。しかし何故考えなかったか。

「最近では温泉まんじゅうなんてどこでも売っているから、そのせいじゃないかしら」

確かにそうだ。昨今、温泉まんじゅうという食べ物は少し大きめのスーパーでも購入できてしまうもので、正直にいってしまえばありがたみを感じることはない。やはぎ曰く「温泉まんじゅうと名乗ることを許される条件は温泉から発せられる湯気で蒸しているか、温泉地で売ってさえいればいい」らしい。それであればスーパーで売ってるあれはきっと温泉の湯気で蒸されたものなのだろう、きっとそうなのだ。

しっかりと温泉の湯気で蒸された温泉まんじゅうを購入した僕らは宿に戻ることにした。

僕らがいる温泉街はすっかり夕日の朱色に染められていて、人も少なくなったせいが段々と僕らの足音が目立つようになってきた。商店街を抜けるとそれは更に顕著に現れ、旅館へあがる階段に着いた頃には耳に入る音は僕らの足音だけになっていた。やはぎは何も話さないし、僕も何も話さない。

もう余計に話すことなんて僕らにはないんだと思う。やはぎと出会って3年ほど経つがその間に二人で様々なことを話した。お互いのことも、二人を取り巻く環境のことも。だから何かを見てそれぞれ何を感じたかなんてこともいう必要がないと僕らは、少なくとも僕はそう考えているのだ。

数段前を歩いていたやはぎが立ち止まっていることに気づいた。見上げると潮風で長いポニーテールをはためかせ、夕日に明るく朱に染め上げられたやはぎがいた。

「やなぎ、後ろ」やはぎはそれだけ口にした。

僕は何も言わずに後ろを振り向くと眩しさに目を細めてしまった。街が夕日に照らされている。それは十分に予想できたことだった。けれどその明度は予想の斜め上。光を遮ることのない低階層建造物の街、そこにあるほとんどの建造物が夕日を反射していた。こんな光景は都心付近に住んでいる僕らには珍しい光景だ。あそこは街の凹凸が激しすぎる、陰影部分が多く夕日に照らされる建物は半分ほどで残りの半分は照らされることもなく影となる。

「そのまま目を閉じて」背後から声をかけられる。

「なんで」

「いいから」

僕は仕方なく目を閉じた。

「そのまま、九時の方向」

九時の方向、真左。僕は今目を開いた先にあるものがわかってしまった。だからこそ、ゆっくりと目を開いた。

「悪くないでしょう?」やはぎは得意げな声を上げる。

朱の海。目の前にあるものがそれだ。

「どっちが綺麗だと思う?」街と海のことで、だろうか。僕は数秒考えて「海かな」と答えた。

するとやはぎは口角を程よく引き上げて「やっぱり海も悪くないでしょう?」と微笑みながら言った。

確かにちょっとは海のことが好きになれたのかもしれない。

 

夕飯を食べ終えて、あたりはすっかり夜に包まれた。そして僕は再び浴場にいる。昼間とは打って変わって人、人、人。風呂で泳ぐ小さい子供から過剰にスペースを取るお年寄りまで、様々な層の人が溢れかえっている。これでは取れる疲れも取れないという感じである。窓から露天風呂を覗き見ると室内浴場の倍は人がいた。明日の朝にでも出直そう。残念というよりは呆れた、そんな顔をして僕は浴場を出た。

浴場前の前には既にやはぎが待っていた。僕だって十分だって浴場にいなかった。それなのに何故。見た所髪は湿っている、浴場にはちゃんと入ったようではある。

「人が多かったし、やなぎを待たせるのもね」

牛乳とコーヒー牛乳を持ったやはぎが言う。まさかどちらも飲むのだろうか。「どっちか飲む?」

牛乳を差し出されるが生憎僕はこういう状況の時はフルーツ牛乳を飲むと決めていた。その事を伝えるとやはぎは「邪道だ」と毒づいたが、それを言えばコーヒー牛乳だって邪道だ。

「私はどちらも飲むから許されるわ」そう言い放ったやはぎはコーヒー牛乳をベンチに置き、片手を腰に置き、牛乳を一気に飲み干し、一息つく事もなく同じようにコーヒー牛乳を飲み干した。僕がどちらかを受け取ったらどうするつもりだったのか。

「そんなの、買い直したに決まってるじゃない」どこまでも頑固な子だ。

瓶専用の自販機でフルーツ牛乳を購入し、ベンチに座って少しずつ飲んでいく。ここでもやはぎは「邪道だ」と毒づいてきたが僕は無視して少しずつ飲み干していく。ここで僕は気になること聞いてみた。

「お風呂から出たのは背中のせいだろう?」温泉旅行に行こうと提案したやはぎがあんなに早いのは少し不自然だ。

「人が多かったからね。痕を見られるのもアレだし」やはぎは少し眉を下げて笑う。「お風呂は明日の朝にでも堪能するつもりだから、大丈夫よ」

やはぎの背中には肩甲骨あたりから背中の真ん中あたりまで伸びる大きな傷痕がある。やはぎ自身、普段はあまり気にしていないようだが、やはり浴場などでおおっぴらに晒すとなると居心地が悪いらしい。

「じゃあまた、明日来ようか」僕はベンチから立ち上がり、飲み干したフルーツ牛乳の瓶を専用のケースに置いた。「朝でも混むだろうから、なるべく早く起きなきゃね」

「あれ、二枚ある」

部屋に戻ると既に布団が敷かれていた。二枚、二人分だ。どこもおかしくはない。

「カップルが泊まる時は空気を読んで一セットしか敷かないと考えていたのだけれど」とやはぎは手を顎に当て淡々と呟いていた。

学生である僕が言うこともおかしいかもしれないけれど、今僕らが泊まっている旅館は多分高級に入るくらいの旅館だ。そんな旅館が行為を促すような対応をするだろうか。そんなことはありえないだろう。その前にたとえ一セットしかなくとも自分で二セット目を敷くつもりだ。

最後に見た時計は十時を指していた。普段ならあと四時間は起きていたが旅行で疲れてしまっては本末転倒もいいところだ。それに明日は早朝に朝風呂を約束していたこともあり僕たちはすぐに目を閉じた。

 

こんな夢を見た。

足元に広がる水面が空を反射していた。そういえばテレビでそんな場所があると言っていた気がする。そこにいたのは僕一人、どこを見ても青。綺麗な景色だ。だがどうだろう、少し物足りない気もした。

 

目覚まし時計のアラームとやはぎの声で目を覚ました。時計を見ると朝の五時。もうやはぎの準備はできているらしい。僕は自分の布団をたたみ、すぐに浴場へ行く準備をする。

廊下へ出ると昨晩まで聞こえていた人の話し声や足音などは全くと言っていいほど聞こえはしなかった。この様子では浴場の人も少ないだろう。やはぎも同じことを考えたのか顔が緩んでいる。地下に向かう際、玄関で女将に「いまならほとんど貸切状態ですよ」と言われてからはもう小走りで浴場に向かった。

「じゃあ、もしかしたら長く入ってるかもしれないから、その時は先に部屋に戻ってて」そう言い残しやはぎは脱衣所に消えていった。

僕も同じように脱衣所で服を脱ぎ、浴場に入った。僕はそこまで長く入るつもりはなかったこともあり、軽く体を流した後すぐに露天風呂に向かった。

予想に反して貸切というわけではなく、一人のおじいさんが先客としてくつろいでいた。

「おはようございます」おじいさんは僕に気づくと軽く会釈をした。僕も挨拶を返したが、おじいさんとの会話はそれきりだった。

露天風呂に入った時は少し闇を帯びていた空が段々とその闇を吐き出していき、完全に青くなった頃、僕は浴場を出た。

昨日やはぎが待ってくれていたベンチにはその姿はなかった。先に部屋に戻ることも考えたが、戻ったところですることはない。せっかくだからやはぎを待とう。

フルーツ牛乳を3本ほど飲み干した後、脱衣所からやはぎが姿を現した。やはぎは僕の手元の瓶を見て一瞬呆れた顔をしたがすぐにいつもの笑顔に戻り、「私もたまには邪道をいこうかしら」とフルーツ牛乳を購入していた。

二人で部屋に戻ると予定よりも早く朝食が用意されていた。あの時間に僕らを見た女将が手配してくれたものだろう。それらを食べた後、僕らは帰宅の準備を進めた。

特別なことは何もない旅行ではあったけれど、僕らのとってはこれが一番いいことなのだと思う。普通のことをこれからもずっと続けることができれば僕らは幸せなのだ。

 

 

旅行から帰宅し荷物を整理する中、僕らはあるものがないことに気づいた。友人に送るお土産がない。どうしたものかと二人で考えた結果、僕らはスーパーに向かった。

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