真っ黒
真っ黒が動いた気がした。視界一面、真っ黒だ。視界がズームアウトしていく。真っ黒なものは一つの大きな黒円であった。見える範囲が勝手に広がっていく。黒円の輪郭付近は薄い灰色の筋がその黒円の中心点に向かって無数に入っている。その様は太陽の周りを覆って揺らめくコロナのようだ。視界が広がっていき、薄い灰色の周りは青色の領域になった。三原色の青というよりは空色に近い青だ。よおく見ると、青の中に黒や白の筋が無数に入っている。筋はその黒い円から放射状に出ているようだ。いや、黒い円へ向かっていると言えばいいのか。しばらく見ていると、青を主体とした領域もまた円形であったのがわかった。その円形の外側は、今度は白色となった。
突然、見えていた範囲全体が動いた。おれが自分の目を動かしたのかと錯覚したが、あちら側が動いたようだ。さっきから視界全体はおれの意思に関係なく勝手にズームアウトしている。わかった。見ているこれは瞳だったのだ。視界のズームアウトは瞳孔を中心に始まって、まつ毛までの範囲で止まった。この瞳の持ち主は白人の赤子であろうとなぜだか直感した。
ところで、おれは現実にある瞳を覗き込んで見ているのか、それとも仮想としての瞳の映像を見ているのかわからなくなった。どちらにせよ、なぜ青い瞳を見ているのかわからない。どういった経緯でこのような状況になっているのか思い出せない。
青い瞳が小刻みに動き出した。瞬きもするようになり、長いまつ毛とまぶたが青い瞳を隠したりお披露目したり。そういえば、さっきから全然目が合わない。こんなに間近で見ているのに。瞳とまつ毛の運動をぼんやり見ていると、運動が止まり、長いまつ毛とまぶたが青い瞳を覆って、瞳が閉じられたままになった。この白人の赤子は眠いのだろうかと心配になったところで、いきなり青い眼が見開かれた。その瞳はしかとおれを見据えていた。
悪寒がして目が覚めた。視界は切り替わっている。自分の部屋の天井が見える。自分の部屋の床に仰向けで寝ていたようだ。ひどく汗をかいている。昼間の窓から光りが眩しいほど差している。そうだ、おれは午前中に高校のコートでテニスをして、帰ってきてから眠りこけたのだった。夏休みの連日の部活でおれは疲れきっていた。
寝汗がひどいので、水分補給と着替えでもしようと起き上がろうとすると、ぴくりとも動かない。あれっと思い、もう一度動かそうとしても体は何も反応しない。頭は起きているのに、体は眠っている。これはいわゆる金縛りというやつか。初めて経験するが、本当にどこも動かない。ただ、左右の眼球だけはかろうじて動かせることに気付いた。
と同時に、いるはずのないおれ以外の人の気配にも気付いた。声を上げようとしたが、喉が詰まって声が出ない。かすかに喉から空気が出た。今日は金曜日の昼間で、家に誰もいるはずがないのだ。汗が止まらない。その誰かはとても近くにいる。汗が止まらない。肝心の右腕も動かない。かろうじて動く両の目で、近くにいる何者かを見定めようとするが、誰もこの目に捉えることができない。汗が目に沁みてきた。痛い。金縛りで瞬きもできないので、痛みを和らげるためには、両目を動かすしかない。
絶えず両目を動かしていると、動けていたらとっくに反射的に動かないといけない事態だということを直感した。もう、その何者かを両目で探す必要もなくなってしまったのだ。
仰向けで寝ているため背中が床に接しているわけだが、背中が恐ろしく熱いのだ。夏の昼間にクーラーもつけずに寝てしまっているからではない。背中から猛烈に汗が吹き出している理由は、人肌と接しているからだった。仰向けで寝ているのにも関わらず、背中に人を感じている。どうやらそれは、おれと同じ体勢で横たわっているようだ。おれと重なるようにして横たわっている。ありえない状況だ。横たわっている人のようなものは黒いものだと目に映らないが感じ取った。何か禍々しいものだ。一気に、体が冷え始めた。それまで出まくった汗が、自分を冷やす凶器のドライアイスに変わった。
瞬間、眠気が襲い、おれの瞳が閉じられた。
眠りの世界に戻れた。おれは胸を撫で下ろそうとした。でも、できなかった。さっき見ていた白人の赤子の瞳が眼前にまだあったのだ。青色の中に張り巡らされている血管が脈を打ち、黒い中心点、瞳孔が急激に広がった。黒い点がズームインしておれに焦点を合わせた。夢の中でもおれは動けなかった。何もできない。生の象徴、命の象徴である赤子。その瞳から、強制的に突きつけられる死に、おれは恐怖するしかなかった。
はっと、目が覚める。また自分の部屋だ。安心できないとすぐに察した。まだ背後に黒い人のようなものはいる。おれはやっぱり動けない。もう、汗も出ない。寒い。眠気がまた襲ってきたが、寝てしまったら死んでしまうような気がして抵抗する。
しかし、眠ってしまったようだ。また、目の前に青い瞳がある。
どれくらい夢と現実を往復しただろうか。声を荒げながら激しく呼吸をしている自分がいた。部屋の外ではミンミンゼミが鳴いている。もう、青い瞳も黒い人もいなくなっていた。動悸する心臓の音を聞きながら体を起こした。頭がぼうっとする。振り返って背中を付けていた床に恐る恐る目をやると、「うわっ」と声を出してしまった。カーペットの床が、おれの汗でくっきりと人型に染みていた。
台所に行き、麦茶をコップに注ぐ。ごくごく飲み干す。霊感なんてまるでなかったのだ。夏休み前までは。しかし、最近、不思議なことが多発する。やはり、夏休み前の学校のあの出来事で本当に霊を感じるようになってきたらしい。
*
一ヶ月前のある晴れた日、おれは学校で英語の授業を受けていた。もう七月に入ったというのに、教室にクーラーは付いていなかった。高校入学から一年以上経ち、高校生活にも慣れ、そして受験まで一年半以上ある、夏休み前の高校二年生という身分は自由に溢れていた。そんな自由な、教室にいる生徒達でも、灼熱の午後二時クーラーなしの環境で、異国の言葉の授業は不自由極まりなかった。早口で展開していく難しい授業に、暑さでやられた脳はついていかない。周りの同級生たちも脳が沸騰しているようで、ぼうっとしている。
こんな暑い日に今日も部活か、嫌だな、とてもテニスなんてできる気候じゃないと、何回思っただろうか。ようやく授業終わりの自由を告げるチャイムが鳴った。
帰りのホームルームまでの束の間の休憩時間が生徒達に訪れる。水道水を飲みに行ったり、持参したペットボトルを取り出したり、タオルで汗を拭いたり、仲良しな子のところへ移動したり、隣の席の人と喋り出したりして、教室が一気に騒がしくなる。セミ達は、短い自由を手に入れた生徒達をよそに、夏期限定のオールフリータイムの熱唱をお構いなしに繰り広げていた。
おれは、いつも休み時間になるとクラスメイトの大森と町田のところへ行く。教室の後ろにある黒板の前がおれたちの定位置だ。いつもはたわいもない、後で思い返しても思い出せないような話しかしないのだが、この日だけは違った。彼らのところに行ったら、二人は妙な話をしていたのである。
「夏になってきたせいか、近頃、増えてるよね」
「うん。生きてるやつの声とかもすごくないか」
一体、なんの話をしてるんだろう。増えてるって何が?話が読めない。続きを聞いてみることにする。
「すごいすごい。さっきの英語の授業でも隣の隣のクラスの〇〇の生き霊が『暑い〜』ってこの教室で騒いでたよな。〇〇は生霊を思わず飛ばしちゃうくらい暑かったんだろうな」
大真面目に話している大森と町田を所在なく交互に見た。大森はおれより背が高くて、町田はおれよりも背が低いので、右上を見て左下を見るかたちになった。おれは口をぽかんと開けてしまっていた。ふわふわする。話の内容はふざけているが、二人の話し方や表情がとてもからかえる感じではない。普段もどことなく陰がある大森はまだしも、いつもおちゃらけている町田の神妙な表情に、おれも神妙にならざるを得なかった。二人はおれのことに構いもせずに続ける。
「ああ、あれね。暑い暑い五月蝿かったから、消しといてやったよ」
「やっぱ町田がやったんだね。次からは周りにバレないように注意しなよ」
癖の天パの髪を指でくるくるしながら言っている大森を見ると、いつもの大森だとほっとするが、全く話が見えてこない。硬直し始めた口を、表情筋で柔らげながら動かし動かし、やっとこさ声を出してみた。
「ふ、二人とも、一体どういうことなの?」
「あ、ごめんごめん。おれたちは霊媒師なんだよ」
大森は真顔だった。実に平たんな口調で当然のように言った。
「へ、霊媒師?」
さっきから鳴いていたミンミンゼミの鳴き声が遠くなる。ふざけているのだろうか。いや、二人とも表情だけでなく目の奥すらも笑っていない。夢だろうか。そぞろな目のおれを見た町田はおれを現実に引き戻そうと質問する。
「霊媒師って聞いて、どんなことする人だと思う?」
おれは我に返った。セミの熱唱がまた耳に近くなった。目を泳がした後、少しの間考えてから言った。
「ううんと、心霊番組とかでは、廃病院とかの心霊スポットで有名人と同行してお祓いとかやる人かなあ。あとは、スピリチュアル番組で相談者に憑いている先祖霊と交信して、相談者の人生を良い方に導いてあげてる人だと思う」
「うん。一般的な霊媒師のイメージはそんな感じだね。だけど、おれたちがなってる霊媒師は違うんだ」
大森の言葉にまたセミの歌が一瞬遠くなる。なってるって何?ヒーローみたいな?かろうじて自分を気力で現実に留まらせてから、詰まりながらも声を発した。
「あの金髪のシャンソン歌手みたいな存在ではないってことね」
「そうそう。おれたちの言ってる霊媒師は、術を使って悪霊を成敗する人のこととなんだ」
「ふうん」
言葉づらでは理解したが、やっぱり現実から離れてふわふわしてる感は抜けない。腹落ちしない。セミの存在が耳孔に残っている間に質問してしまおう。
「術って?二人はいつから霊媒師なの?なんでそんなことおれに話すの?」
二人は目を合わせた後、まるで打ち合わせをしていたかのように、滑らかに言った。まずは大森から。
「術は、悪霊を攻撃する放出系と、悪霊からの攻撃や憑依を防ぐ結界系に大きく分かれるよ」
次に町田が流暢に話す。
「おれはまさに今の野瀬みたいに大森から突然話を聞かされて、半年くらい前に霊媒師になったよ。いきなり現実感ない話をされるとびっくりするよね。大森は親戚の神主のおじさんから勧められて一年前に霊媒師になったみたい」
教室のスライド式の扉が音を立てて開かれ、担任の先生が帰りのホームルームを始めるために教室に入ってきた。まだ自分の席に着いてなかったおれたち三人は軽く叱られてしまった。クラスの同級生たちは、一連の霊媒師云々の話を三人のいつも通りのバカ話としか、受け止めていなかった。
早く話の続きが聞きたかった。ホームルームの最後にやる、さようならの号令の後、教室を見渡す。立ち上がったり、リュックを背負ったり、部活に向かったりしている生徒たちの中から、大森と町田を探す。二人は既にいなかった。あんな話をした後だというのに、どういうつもりだ。ふざけていたのか。
試合前だというのにテニスに集中できない。飛んでくる黄色いテニスボールを打ち返すのをつまらない単調な作業に感じる。コート上を右に左に、時には前に後ろに動かなきゃならない。いつものようにテニスに心を向けられない。大森と町田が霊媒師だって?得体の知れないそれが何なのか、その続きを話さずに二人ともとんずらしやがって。今は試合前で集中しなくちゃいけないんだ。
日が暮れる頃に練習が終わり、顧問の先生に呼び出された。どうした、お前らしくない、なにがあった。いえ、なんでもありません、すみません、明日には調子を戻します。
本当のことを話したところで信じてくれないだろう。信じる信じない云々より、怒られさえするかもしれない。おれもなんでこんな子どもじみたことに頭を悩ませているのだろう、もしかしたらただのおふざけだったのかもしれない、いや、でもあの二人の真面目な雰囲気はなんだったのだ。
部室に戻ったら、もう他の部員は帰ってしまっていた。いつも通りバカ話でもして気を紛らせたかったのに。いつもよりも汗を含んでいないトレーニングウェアを脱いで、ツメ入りの制服に着替える。やけに外が静かだ。
足早に帰り道を歩いた。夏至を過ぎると日の入りが早い。夏本番はまだ先なのに。寂しくなる。完全下校時間を過ぎてしまったせいか、テニス部以外の運動部の部員たちも既に帰ってしまったようだ。帰り道には誰も知り合いがいない。高校生以外の人の通りもまばらだった。
帰宅したら、母が夕ご飯を用意して待っていた。帰り遅かったわねえ、どうしたの、なにがあったの。いや、別になんでもないよ、ただ顧問にレギュラーメンバーが呼び出されて試合に向けてミーティングしてただけだよ。
霊媒師云々の話を聞いただけで、ここまで日常に尾を引くとは。なんだかあの二人に腹が立ってきた。手早く夕ご飯をかき込んで、自分の部屋に行った。
学校の宿題をしている最中も、霊媒師云々のことが時たま出てきた。それを頭から振り払い振り払い、宿題を終えると、ベッドに潜り込んだ。もはや、ふて寝に近い。目を瞑っていても出てくる霊媒師云々を振り払い振り払いしていると、ようやく眠ることができた。
次の日、学校に行ってもおれのモヤモヤは晴れなかった。むしろ、もっとモヤった。見事に大森も町田も普段通りに戻ったからだ。
大森はいつも教室に一番乗りで来ているのにも関わらず、机に突っ伏して音楽プレイヤーを聴いている。焼けていない真っ白な肌は引きこもりがちの生活を表している。体の大きい大森が体を丸めて机に乗せた太い両腕に頭を入れ込んでいる様子は、身体が大きいのに臆病なアルマジロのようだ。休み時間も同様だ。誰とも話そうとしない。クラスの中で友達といえるのは、おれと町田くらいなものだった。大森は人と交わらない分、自分の世界を持っているから、話していて面白いとおれは思っている。今日も授業時間以外はずっと耳にイヤホンを差し、机に突っ伏してアルマジロポーズをしていた。
町田が教室内にいるかどうかはすぐにわかる。誰かしらに、ちょっかいを出している。小さい体を生かして、次々とクラスメイトにからかい続ける。背中をちょんちょんしたり、奇声を発したり、他人のノートに落書きしたり。その方法は様々で、背丈同様、小学生みたいなやつだ。大森と対照的な焼けた黒い肌はその活発さを表している。おれが町田を気に入っているのは、からかう相手を選んでいないところだった。多くの人から町田は厄介者認定を受けていたが、おれはグループ関係なく誰とでも交わる町田が好きだった。今日もくだらないことをクラス全員にしていた。おれは消しゴムのカスを授業中に先生の目を盗んで投げられた。
だからこそ、昨日の話がなんだったのか、二人の様子を見ても判断がつかず、心の霧は濃くなるばかりだった。そして、二人に対する怒りのボルテージは上がるばかりだった。
もうこれ以上は耐えられない、帰りのホームルームが終わって、昨日みたいにこっそり帰ろうとする二人を捕まえて、思い切って聞いてみた。同級生たちは皆帰るなり、部活に行くなりして、教室にはおれたち三人以外誰もいなくなっていた。
「なんなんだよ。昨日の話の続きはいつするんだよ」
二人は顔を見合わせる。そして、おれの方を見て、笑った。
「いやー、ごめんなー。やっぱり野瀬を巻き込もうとしたのはまずかったと町田とあの後話し合って、こっちからは話さないことにしたんだ」
大森は太い指で天然パーマをガシガシしながら言った。
「でも、こうやって野瀬から話してくれた。感謝するよ。ありがとう」
二人は頭を垂れた。おれはいつもの二人からは想像もできない行為に後ずさりした。
「や、やめろよ二人とも。らしくないぞ」
二人はふっと微笑した。大森が口を開く。
「で、何で野瀬にばかみたいなことを昨日から長々話してきたかというと、おれたちを助けて欲しいんだ」
「えっ」
エの口の形のまま、硬直した。状況的に助けて欲しいのはおれの方なんだけど。二人に心の中でツッコむ。そういえばさっきからセミが鳴いているな。ミンミンゼミだ。
二人は話を急いでいるらしい。構わず続ける。
「他の人には内緒にしていたのだけど、もう野瀬には話していっかって、おれと大森で決めたんだ」
「そう。野瀬は今は目覚めてないだけで、人よりも霊感が潜在的にかなりあるんだよ。だからおれたちと一緒に霊を退治してみないか」
漫画みたいな話を聞いて余計口が開いてしまった。でも、この二人といつも一緒にいるからか、ふざけていないことだけはわかる。いくらなんでもお遊びでこんなに話を作り込まないだろう。口はようやく閉じてきた。しかし、何を言えばいいのか困っていると、そんなおれを見て、二人は口調をゆっくりにして話し始めた。
「昨日、野瀬の前でわざとおれと大森で話したことだけど、最近悪霊の数が増えてきてるんだ。お盆に向かって日に日にやばい状況になってる。正直、悪霊退治するの、二人じゃ手一杯になってきたんだよね。だから野瀬にも力を貸して欲しいんだ」
「もちろん、部活や勉強を優先していいし、たまに時間ある時だけでいいんだ。急なお願いですまん」
二人は切実な目を向けてきた。おれはだんだん自分を取り戻してきた。ミンミンセミの声が大きくなる。助けて欲しいと親友たちが懇願してきている。それに、なんか楽しそうじゃないか。高校二年生の夏休みという最高に自由な時間を、右も左もわからない高校一年生から脱皮した後の、高校三年生の過酷な受験戦争にはまだ突入しないこの自由な時間を、悪霊退治に充てるって、すごくないか。
「いいよ。面白そうだしやる。ちなみに、断ったらどうするつもりだったの。部外者には内緒なんでしょ、この話」
「やった。よろしくな。もし断っていたら、それについての記憶を消すつもりだったよ」
大森がにこりと笑う。おれにとっては笑えない話だが、二人の不思議な言動に慣れてきてもいたからたぶん記憶を消すことも本当にできるんだろう。
「じゃあ、早速、野瀬の霊能力を目覚めさせるか。悪いけど、椅子の背に腹を付けて座って、おれたちに背中を見せてくれる?」
「うん、わかった」
その後、十分間、町田はぶつぶつ唱えながらおれの背中に右人指し指で何かを書き続けた。終わると、おれは全身の血液がほてって熱くなった気がした。血液が体中を巡る感覚がある。新霊媒師の誕生だ、大森と町田は喜んだ。おれは二人と握手してこれからよろしくなと言った。二人は、「このことは、絶対に他の人には内緒だからな」と釘を刺した。おれはわかっているよと笑った。
おれが霊媒師となった次の日は、久しぶりの雨だったのでテニスコートが使えず、トレーニングルームで筋トレと校舎の中を走るだけで部活は解散になった。事前に教室で待っている大森と町田と合流する。大森も町田も帰宅部だった。
「ごめんごめん、やっと終わったよ」
「うん。まだそんな暗くなってない。大丈夫だよ」
大森はふくよかな体を揺らしながら言った。町田が早口で捲し立てる。
「えーと、今日やるのはね、いきなり悪霊退治もいいんだけど、野瀬にはまだ早いから、霊がいることを感知できるようにしようと思うよ」
「感知・・・?」
大森がゆったりした口調で言う。
「もう、実は感じてるかもよ。実はこの教室に一人いるんだ」
「え・・・ほんと? だとしたら怖いんだけど」
玉袋と膀胱がキュッと締まってしまった。自然に内股にもなる。
「ははは、大丈夫だよ。霊は霊でも、善霊だからさ。たしかに霊媒師は悪霊の方が感知しやすいけど、野瀬は善霊でもわかる段階にいると思うよ」
もう既に感知していると言われると、余計にちびりそうなんだが、と思いつつ、辺りの気配に集中してみる。
「・・・・・・・」
おれたち三人がいるのは黒板の前の教卓の周り。そばにはいないな。だんだんと感知していく範囲を広げていく。教室の後ろの方まで感覚を広げた時、何かおかしいことに気付いた。
「なんか、白い感じがする・・・なにもいないはずなのに」
大森は満足げな表情を浮かべる。町田はお調子者らしくハイタッチをしようとおれの前に手のひらを向けてくる。おれもそんな二人を見て嬉しくなり、町田のハイタッチに応じる。
「うん、正解だよ」
「やったね、そう、善霊は白いと感じるんだ。そして、悪霊は黒いと感じる。その霊のレベルによって、より白い、より黒いと感じることになるよ」
「ふうん、ドラクエみたいに数値でレベルは感じれないんだね」
おれは、冗談を言えるくらいに、非日常なこの状況に慣れていた。思い出してみれば、何もいないのに、白かったり、黒かったり感じたことはこれまでにもあった。その旨を二人に伝えると、霊媒師でもないのになかなかそんな人いないよ、やっぱ野瀬は資質があるんだねと口角を上げて目を細めながら交互に言った。
以来、おれたち三人は以前よりも一緒にいることが多くなった。
二人のように霊の姿は見えないまでも、気配や嫌な感じを察するようにはなった。日が沈み、暗くなってくると霊の数は増えるようだった。あの放課後の儀式で一気に霊能力が開花するかと思ったが、二人曰く、徐々に花開いてくるものなのだそうだ。
ある学校の休み時間、おれは二人に体育館の裏に呼び出された。
「あ、きたきた」
「野瀬も霊能力上がってきたし、そろそろ面白いもんを教えてやるよ」
言うと町田は右手をグーの形にし、人差し指だけ伸ばした。そして、右腕を仰々しく伸ばし、ゆっくりと天高く上げた。途端、右人差し指は猛スピードで奇妙な文様を描き出した。書き終わると有無を言わさず、前方に右人指し指を向けて、何かを放つ仕草をした。
「見えたか?」
町田はおれに問うてきた。
「霊的なものがってこと? いや、見えないけど」
首を振ったおれを見て、町田と大森は、はあと残念そうにため息をついた。
「最後に右人差し指を前に向けたでしょ。その時に指先からエネルギー波が出たんだけど、まだそれが見えるまでには至ってないってことだね」
今の段階では文様の書き方を覚えるまでと言われ、三種類を覚えた。利き腕を使うらしく、文様が複雑なものほど、高度な術で、エネルギー消費量が大きい。その分、霊に与えるダメージも大きい。それと、結界の術も教えてもらった。六角形を地面や壁や空中に書くと、その六角形からエネルギーが絶えず出て霊からの侵入を阻むことができる。おれは結界のそのエネルギーも見るにはまだ霊媒師としてのレベルが足りなかったらしい。これらはまだまだ初歩的な術であるらしい。おれは早く術のエネルギーを見たくて、実践で術を使いたくてうずうずしていた。
夏休み直前の土曜日は、次の日の日曜が試合だというので部活が休みと顧問から告げられた。とにかく霊なるものにお目にかかりたい、霊を退治したいおれは早速告げられたその週の火曜日に二人に連絡をした。そうして、試合前の土曜日の夜に学校の近所の寺で念願の霊退治をすることになった。
霊能力者としての力が大きくなっているようで、霊の気配を感じるだけでなく、霊の声も聞こえるようになった。例えば、いつも平日の朝は家を出るのが家族の中でおれは一番遅いのだが、その週の水曜日、一回家を出てから財布を忘れたのに気付いた。いけねと家に戻って、玄関のドアを開けたら、「わっ」と、家の中からいるはずもない三十代くらいの男の声が聞こえた。なぜか霊の方が驚いていた。
次の木曜日にも霊の声を聞いた。おれは幼い時からクレヨンしんちゃんの野原しんのすけの真似をして、ただいまをおかえりと言う癖がある。何年も家に帰ったらおかえりと言ってきたのだから、ただいまと言ってしまうはずがないのだ。しかしその日は、帰ってきて玄関のドアを開けるといつもやってる自然な感じで「ただいま」と言ったのだった。いや、言わされたのかもしれない。すると、家の中から「おかえり」と優しそうな二十代くらいの若い女の声が返ってきた。母親の声でもないし誰だと思い、靴を脱ぎ捨て足音を立てて家の中を捜索したが誰もいない。ミンミンゼミの声が鳴いているばかりだった。
これらの出来事はおれにとっては未知の経験だったが、怖さは全くなかった。霊自体も害はなさそうな白い感じであったし、その姿さえも見ていないので、ホラー体験というよりはポップな体験であった。
しかし、金曜日に、あの青い瞳と黒い人のようなものが現れたのである。恐怖と金縛りのために利き腕の右腕を動かして術を使うことも叶わなかった。完全にあちら側のレベルが上だったのだろう。まだ現実世界で直接この眼で正体を見ていないとはいえ、初めて霊から死の世界を突きつけられて、このまま霊媒師をやっていて生きていけるだろうかという言いようもない不安に押しつぶされた。他人には秘密にしておかねばならないので、相談する相手もいない。大森と町田に相談しても、強くなれと言われるか、それか今までの記憶をリセットさせられるかの二択であろう。記憶を消されるのも勘弁だし、かと言って霊媒師を続けて強くなる途中で悪霊に殺されるのも勘弁だった。歩いている未来への道に、分厚い壁を作られたようだった。死のちらつきに怯えながら、この日は一睡もしないで夜を明かし、約束の土曜日になった。またさらに夜が来るのを待って、待ち合わせの寺へ向かった。
通っている高校の周辺は住宅街で、夜になるとひっそりする。夏独特の動植物の臭いを含んだ生暖かい空気がおれの地肌にまといつく。街灯が少なく、たまにすれ違う人の顔が見えずに、彼らを異界の者とさえ思ってしまう。猫の鳴き声に肩が震え、桜の葉のざわつきに身が飛び上がりそうになる。しかし、構わず歩き続ける。まだ恐怖心よりも悪霊退治したい好奇心の方が僅かに上回っていたのだった。
寺の入り口にはもう大森と町田がいた。風は止み、周りにおれたち三人以外の生き物の気配はない。
「おう。野瀬は遅くなってむしろ良かったかもしれない」
「え、なんで」
「わからない? もう結界を張って、寺からおれたちのところへ来れないようにしてるんだよ」
寺に住み着く悪霊たちは、学校にいるやつらよりも遥かにレベルが高く、数も多いみたいだ。禍々しい黒い気を寺の敷地内から無数に感じる。おれは町田の五十分の一、大森の百分の一のエネルギーしか持ってないらしいので、結界より先に行ってはいけないと言われた。というより、寺の入り口より先に進もうとすると、肌が焼ける感覚がしたような気がしたのでそれ以上行けない。おれのレベルよりも遥かに高度な結界が張ってあることがわかった。
あとはもうおれは二人の活躍を見ているだけだった。しかし、レベルの低いおれからしたら、その光景は実に滑稽なものだった。大森が空中に意味不明な文字列を書いて、右人差し指をなにもいない前方に向かって放つ動作を何回もする。町田が難しい表情で集中した後、地面に向かって六角形を書いて、地面を叩くが空しくパンッと音を立てるだけ。素早しっこい町田らしく、機敏に動きながら放出系の術を乱発している。体型がずっしりしている大森は、時間をかけて溜めたエネルギーを、高度な放出系と結界系の術に使うスタイルだ。しかし、おれには二人が変な動きをしているだけにしか見えないのだ。
ふいに大森が「ぐわっ」と声を上げる。町田が大森の近くに人差し指を向けたと思ったら「大丈夫か」と駆け寄る。
「こんちきしょー」と町田が叫び、指を空虚に差し続ける。「気をつけろよ」と言いながら大森は複雑な文様を空中に空書きする。
そんな奇妙な光景を二時間も見ていたのだった。おれはなんだかバカバカしくなってきた。なんでテニスの試合は明日なのに夜の寺でこんな茶番をずっと見ているんだろう。勉強もしなきゃいけないのに。
内心うんざりするのにもうんざりした頃、二人の動きが止まった。ようやく終わったようだ。二人の健闘を称えるようなセリフを言ったり、適当に相づちを打ったりして、おれは二人と別れた。
家に帰ると、母がいたので、一切合切話してしまった。母は何それ〜と言うだけで、特に言及してこなかった。そんなもんなのだ。他の人にとってはそんな他愛もないことなのだ。他言したからといって、おれの記憶がなくなることはなかった。あとはもう時の流れが早かった。夏休みは部活が毎日あったし、夏休みの宿題も多かったので、大森と町田と会う機会もなかった。不思議な体験も、死の恐怖も感じることもなく、普通の高校二年生の夏休みを送った。結局、霊の姿を一度も見ることができなかったのが唯一の心残りではあった。
夏休みが明けて、新学期が始まった。大森と町田とは普通に話すが、不思議とあの夏の一連のことについては話さなかった。二人ともそのことについて本当に覚えてなさそうであったし、おれはあまり触れたくない話題だったのでこちらからは言いたくなかった。
あの夏の出来事が、淡い思い出に変わり、秋、冬、春と流れる日常に埋もれて風化し、夢だったのかもしれないと思ってきた高校三年生の夏、それは起こった。
あるお昼休み。既に多くのパンや牛乳や焼きウインナーや卵焼きなんかが同級生たちの腹の中に収まったが、それらの残り香が秋の日光と混じって、生臭くなった。そんな時分の教室を避けて、おれはあと十五段上がったら屋上に出るというところの踊り場で大森と町田ではない別の友人二人と喋っていた。
学校全体に生徒達を急かすチャイムが鳴る。友人二人は「あはは」と笑い合いながら教室の方へ駆けて行ってしまった。事前に決めていたかのような自然な動きに、なんだよとその場に立ち尽くしたが、ふと日常との違和を感じた。
まだ本鈴五分前の予鈴のチャイムが鳴っただけなのである。いつもだったら予鈴なんて無視して、本鈴が鳴り始めてやっと生徒達は教室に急いで戻るのに。
眉をしかめつつ、おれ一人置いて勝手に行ってしまった友人二人に若干苛立ちもしながら、何気なく屋上の方を見上げるように振り返ると、それはいた。
夏の陽に照らされた階段の上に、屋上へ出るドアのところが明らかに変だ。空間が割れてそこから出てきている最中なのか、それともその存在が空間を歪ませているのかわからないが、異形の者、異形の物であることは確かだった。夏の烈々な陽が差すだけで影になるものはないのに、黒い影がある。それは、地面に垂直に立っている、あるいは浮いている。影は全体的にモザイクがかっているような、バグっているような、とにかく、この世のものではないことがすぐに見てとれる。輪郭辺りが、特にぼやけているので、あそこがこの世とあの世の境目なのだろう。
ぼんやり見ていると、またもや動けないことに気付いた。異形のものは、人型になってきた。結構小さい。背丈から推察するに少年のようだ。ゆっくり苦しそうに動いている。おれはようやく霊なるものにお目にかかれて感動し、霊媒師の術をやろうとも思わなかった。おれは恐怖を感じていたというよりも、富士山の山頂で富士山が大噴火し、もう命の終わりを素直に待つしかないというような、清々しい気持ちになっていた。
おれが右手を前方に向けない代わりに、黒い影は右手を前に出して、こちらへゆっくりと近づいてくる。黒い右手は大きく広げられ、おれの視界全体に占める黒の面積がだんだんと大きくなっていく。ズームインしてくる黒い右手を見ながら、そういえば、逆にあの青い瞳の中の黒い瞳孔はズームアウトしてきたなとぼんやりと思った。視界に黒の領域が広がる。視界一面、真っ黒だ。真っ黒が動いた気がした。