ゼロの未来

 

独りであること。それは、うそにまみれた現代の、偽物の、救い。

  ――テリー・ギリアム『ゼロの未来』

 

『未来世紀ブラジル』で有名なテリー・ギリアムの最新作。『イングロリアス・バスターズ』のクリストフ・ワルツ。デビッド・シューリス、ベン・ウィショー、ティルダ・スウィントンなど、熟練の豪華キャストを集めて監督が描いたのはやはり、救いに見せかけた、現代のディストピアだった。

初めて秋葉原を訪れたときのショックを再現したという“ゼロ”の世界。コンピュータに支配された近未来で、人々は「よりよい社会」を目指すために情報を通過させるニューロンのようにつながっているだけ。個人の意志などというものは、もはや存在していない。人は歯車で、社会的昆虫(ソーシャル・インセクト)のように、目的もなく働き続ける。

主人公のコーエンは、情報社会を支配する世界的大企業「マンコム」に所属する天才プログラマー。自我をもたず、“我々”という一人称をもちいて空虚の中を生き、「生きる意味を教えてくれる電話」を熱狂的に待っている。

デジタル世界においてエリートであるはずの彼は、生きる意味もわからないままに、“すべては無意味である”ことを示す「ゼロの定理」の証明をマンコム社から命じられ、廃墟のような教会(アナログ)へと引きこもる。作業の進陟はすべて管理され、キリストの首にすげかえられた監視カメラや、鏡の裏に隠された監視カメラによって、常に記録される。

極度の緊張にさらされながらも、コールガールのベインズリーとVR(バーチャル・リアリティ)の中で逢瀬を重ねることで徐々に「個」を獲得していく(我々→私)コーエンだったが、所詮、VRはデジタル世界のつくりものにすぎない。全てが無意味であることを証明できず、無の最高の体現者であったコーエン自身がデジタル・ディストピアの中で「個」を獲得したとき、皮肉にも隣にベインズリーの姿はなく、たった独りで美しい夕陽とプライベートビーチに佇んでボールと戯れるよりほかになすすべがなくなってしまう。

近未来、ディストピア。完全管理社会において、人々がニューロンのようにつながるしかなくなってしまう時代。人々はつながりから逃れて自分の道を歩くことができるのだろうか。それは果てしない孤独なのだろうか。

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