『ザ・トライブ』
『ザ・トライブ』
福田周平
サイレント映画というわけではない。性行為をする際に肌の擦れる音、闇医者に中絶手術を受けている女の悲鳴、人の頭を家具で叩き潰す音。この映画では、そんな生々しい音が嫌でも耳に入ってくる。
その理由は、「音のある会話」が存在しないからだ。この映画において登場人物たちを繫ぐ言葉は「手話」。字幕も存在しない。観客は、物語や登場人物の感情の変化を文字や言葉で追うことができない。
劇場は異様な静けさに包まれる。しかし、寝息は一切聞こえない。それくらいに登場人物の感情がズシリと伸し掛かってきて、とてもじゃないが子守唄代わりにはならなかった。
主人公の男は、聴覚に障害を持った人々が生活する施設を訪れる。彼がそこで目にしたのは、今までの生活とは全く別の世界。人間の強欲が渦巻く、圧倒的な階級制度。夜な夜な施設を抜け出してすることと言えば、強奪、飲酒、喫煙、セックス、そして同じ施設の女を売ること。そうして手に入れた金や行った悪事の大きさによって階級が決まっていく。いくつもの悪事に加担し、ある程度の地位を手に入れた男であったが、彼を崩壊させたのは今までの悪事ではなく、一人の女に対する愛であった。
ジブリッシュというお芝居の稽古方法がある。役者はジブリッシュにおいて、メチャクチャ語を用いて芝居する。つまり、既存の言語を一切使わずにテキトーな言葉でシーンを創造するのだ。言語という情報無しで自分の感情や置かれている状況を説明することは非情に難しい。ましてやそれが映画や舞台になったとき、観客にまで自分の感情が浸透しなければいけないと考えると想像を絶する。しかし、言語という情報伝達手段がなくなったことでそこに残るのは、何も纏っていないリアルな感情。ろ過されていない泥水をそのまま飲んだ。「ザ・トライブ」から受けた異様にあと引く重い感情の正体は、そこにあるように思う。