しゃくれクワガタ♀
わたしはアゴがちょっぴりだけしゃくれています。だけどそんなに気にしていません。なぜってわたしは小顔だから。元々の顔が小さいのだから、それだけ前に出ちゃうアゴの面積(体積?)も小さいのです。それはクワガタに似ています。わたしは女性だからクワガタのメスです。クワガタのオスはその種類によってアゴが細長いギザギザだったり太くて大きいのだったり色々な目立つ形をしています。だけど、クワガタのメスはその種類が違っても見分けがつかない短くて小さなアゴばかり。でも、わたしにはメスクワガタのアゴでいいのです。もし万が一、わたしが男として生まれて、オスクワガタみたいな大きくて立派なアゴ勇や阿藤快みたいなアゴを持ち合わせてしまったら、わたしは一生、家に引きこもってしまうでしょう。それこそ、木の割れ目に大きいアゴだけ突っ込んで静止しているオスクワガタのように日々をやり過ごすしかありません。
「ピローン」
真夜中のわたしの部屋でわたしの携帯が鳴りました。真っ暗な部屋の中でほんのりスマホの明かりが灯っています。そろそろ来る頃だと思いました。今日、いや正確には昨日ですが、一年も付き合っていた彼氏にフられたのです。それでメッセージを返してなかった男たち全員にさっき返信しておいたんです。
わたしは情緒不安定でもメンヘラでもありません。ええ、決して。わたしをフった彼氏が悪いんです。わたしは一人暮らしの彼氏の部屋にしょっちゅう泊まり込んで、掃除やら洗濯やら皿洗いやらやってあげたのです。週に四、五日は行ってあげてたんじゃないでしょうか。それなのに、彼氏は家賃と光熱費の半分の支払いを毎月要求してくるんです。彼氏、社会人なのにですよ。ありえないです。でも、優しいわたしはちゃんと納めてきました。アルバイトを増やしてきちんと払いました。それなのに、デートの頻度は減るどころか増えるばかりだったんですよ。わたしはお金がないのに。彼氏が出してくれればいいんですけど、これもまた折半。ひどい時は、向こうが金ないと言ってきて、わたしが全額持ったこともあります。別に、近所のファミリーレストランとか公園とかに行く安いデートならいいんですけど、箱根に温泉旅行に行った時、わたしに払わせたのはさすがにまいってしまいました。ケンカをしても、なんでしょうね、言いくるめられるんです。わたしは好きになった相手には、嫌われたくないので自分の感情を一切言わないんです。好きな人の言うことには全て同調してしまいます。さらに、今思い返すと、彼氏が有名大学卒業で頭がいいから、勉強しないで入った動物の専門学校に通って引け目を感じていたわたしは、最初からケンカの勝負をあきらめていたのかもしれません。しかも夜の勝負もわたしはいつも負ける。やり終えた時、いつもわたしはヘトヘトになってしまいます。そんな時、負けた感じがするんです。というか、わたしがしたい時は彼氏はしてくれませんでした。彼氏がしたい時にしかできませんでした。それでは、勝負にならないのもうなづけるでしょう?
そんなこんなでフラストレーションが溜まっていたのは絶対にわたしの方なのにフられたわけです。良いように使い回されてあげくは捨てられただけでした。やっぱりわたしはクワガタのメスです。オスクワガタと同種のメスクワガタを一緒のケースに入れて数日放っておくと、切断されたメスの死骸がケース内に転がっていることがあります。仲良く交尾をしていたのにも関わらずです。これは、オスがメスを気に入らないと、その大きなアゴで鋏み殺してしまうことがあるのです。理不尽ですよね。それと同じことをまさにわたしは彼氏にやられたわけです。わたしはクワガタとは違って体だけでなくお金も時間もオスに投資してあげたのに。やり場のない感情を、他のオスにブチ撒けるしかありません。
「ピローン、ピローン、ピローン」
おお、男たちから返信が次々と来ます。やっぱりわたしはモテます。一人の彼氏に集中して視野が狭くなっていました。視野を広げてみると、オスなんかたくさんいるんです。オス一人にのめり込んでいたわたしは愚かでした。
返信が来た男たちのプロフィールを見てみます。なになに、弁護士に起業家に会社役員に投資家に・・・。本当でしょうか。わたしがやっているこの出会い系アプリはフェイスブックアカウントがないと登録できない信用性が高い出会い系とはいえ、いくらでもプロフィールなんてごまかせます。
とりあえず、二十人の男たちから返信が来ているので、顔が悪いのから無視していくことにしました。プロフィールには顔写真もあるのですが、もう少しましな写真はなかったのでしょうか。いくらでも撮り直しや加工がきくというのに。
わたしのプロフ写真なんか、大いに盛っています。気にしていないとはいえ、少ししゃくれているアゴは頬杖をついた右手で隠し、鼻筋が通って見える斜め上からのアングルに、フォトショで加工して、色合いを淡くしたり光りを入れて仕上げてあります。元々わたしの目は大きくて愛らしいのもはたらいて、どこかのタレントの宣材写真のような仕上がりになります。詐欺ではありません。オスさえ釣れればいいんです。さあ、顔が良いオスから返信を検討していきましょう。
弁護士:「久しぶりだね。連絡ありがとう。あやねちゃん、今週末とかはヒマしてる? よかったら会わない?」
こういう軽いオスは嫌いです。連絡してきたから脈アリとか思ってるのでしょうか。今週末とか急すぎますし、何よりこの誘いに乗るほどわたしは軽い女ではありません。というか、弁護士のクセして三ヶ月も連絡を経っていたわたしにがっつくなんて、よっぽどモテない人なんでしょうね。顔は良いですが不良案件なのでリリースです。異議は受け付けません。ちなみに、あやねちゃんはアプリ内でのわたしの偽名です。本名はまりあといいます。
起業家:「へぇ〜、あやねちゃんは、音楽が好きなんだね。おれも音楽好き。邦楽のポップをよく聴くよ」
さっきの弁護士みたく、すぐにガッツかないところはまだいいでしょう。でも、一ヶ月も無視していたわたしにその返信はないと思います。なんで自分語りをし出したのでしょうか。そこは会話を続けるために、わたしに質問を投げるべきところです。そもそも、わたしが好きなのは洋楽のロックなので、返しようがありません。わたしのプロフィールをきちんと見ていない証拠です。この人のプロフィールを見てみます。世のため人のために事業をやっていると書いてあります。最近流行りの社会起業家ってやつですね。でも、利他主義を追求しているなら、メッセージの返信でも気配りをしろという話です。足下の小さいところからつまずいているのに、その先の大きなビジョンを達成できるはずもありません。この人は自ら掲げる信念に早速反しましたので、信用なりません。リリースです。
なんだかむなしくなってきました。スマホの画面から目を離します。スマホ以外に光源がなく真っ暗なので、目がチカチカします。スマホをソファの上へ、ほっぽりました。
何をしても無意味な時間を過ごしていると感じてしまいます。全ての元凶はわたしをフッたあの忌々しい彼氏。ベストオブくず男なのにこのわたしを捨てました。なんであんなやつが好きで尽くしていたんだろう。わたし自身に対してもむかむかしてきます。でも、何かしてないとこのなんとも言えない気持ちはわたしという入れ物の底に留まり続けるだけです。またスマホへと手を伸ばします。
会社役員も投資家もメッセージの内容は悪くはないのですが、本当に日本を回しているほどの人物なのか疑問を持たずにはいられませんでした。返信が来たオスは三十人にのぼりましたが、コミュニケーションを面倒に感じるレベルの印象の方々ばかりです。社会的に重要なポストに就いてらっしゃる方がほとんどなのに、こんな真夜中に一専門生に構うなんて随分とお暇なんですね。
「ピローン」
誰かがわたしにいいかも!をしたようです。この出会い系アプリは、居住地や年収や体型などの条件を入れて異性を検索して気に入った人がいたら、フェイスブックのいいね!にあたるいいかも!をします。その時にその人に対して通知がいく仕組みです。向こうもこちらを気に入っていいかも!をしたら、アプリ内でチャットが可能になります。今回は向こうからいいかも!をしてくれたので、わたしがいいかも!を返せばメッセージを送り合えるというわけです。
さて、わたしにいいかも!をしたお目の高いオスはどんな顔をしてるかなとプロフィールを覗いてみます。
・・・はっきり言ってタイプでした。名前はゆうと。顔はジャニーズ系でメガネを掛けています。わたしはメガネを掛けてる人は三割増しに見えてしまうほどメガネフェチです。メガネ自体も好きで、メガネの聖地の福井県鯖江市にある眼鏡会館にわたしが住んでる神奈川県から三回も行ってしまうほどなんです。ゆうとくんが掛けてるメガネはなんとべっこう柄です。オシャレで好感が持てます。中高時代はサッカー部で趣味はギターにカラオケとあり、自己紹介文からも明るい人柄であるとわかります。思わず目を止めてしまったのは、ゆうとくんが昨日まで彼氏だった男と同じ有名大学に通っていると書いてあるところ。一瞬、元彼の顔が浮かびましたが、ゆうとくんが頭がいいことにますます好感度は上がっていきます。すぐにいいかも!をしたら、ガッつく哀れな女子に見られると思い、三十分待っていいかも!をしました。マッチング成立です。時刻は午前二時を回りました。
「ピローン」
すぐにメッセージが送られてきたようです。
ゆうとくん:「あやねさん、はじめまして。ゆうとです。 いいかも!ありがとうございます! 写真、本人かどうかうさんくさいくらいかわいいですね! よかったら『こんばんはー』とでも気軽にメッセージして下さい♪ もしいきなりメッセージして不快に思われましたらすみません。 その場合は無視してもらっていいです」
すっかりゆうとくんに心を奪われてしまいました。完璧です。あなた本当に大学生ですか。ゆうとくんなりに考え抜いたメッセージなのでしょう。他の女の子にも送っている可能性はもちろんありますが、わたしはそれよりも、このメッセージを完成させたゆうとくんの努力を賞賛します。うさんくさいくらいってところが怒るか怒らないかのギリギリを攻めていて挑戦している姿が逆に好感が持てます。やはり、男性はリスクを負っている人がかっこいいです。メッセージの後半はわたしを気遣うような文面で占められていますが、実はわたしが返信してもいいなと思わせる文章になっています。さらには顔文字を控えて音符を一回使うくらいのポップさで女遊びが好きな軽い男ではないと暗にアピールしています。普通、ゆうとくんレベルの顔の良さになってくると、顔に自信があるあまり、メッセージがオラオラしていている場合が多いのです。たかだかメッセージですが、そういう小さいところに気を遣えるゆうとくんは、顔だけのオスとは一線を画しています。
時間も時間なので、返信は朝になってからにすることにします。やっといい人が見つかって安心しました。さっきまでのやり場のない気持ちはわたしという入れ物を抜け出しどこかへ飛んでいってしまいました。わたしはベッドに横たわり、スマホの電源を消します。わたしの部屋にようやく暗闇が訪れました。
翌日。専門学校に行く日でもあったので、遅く寝た割には午前六時に起きました。まだゆうとくんにメッセージを返すには早い気がします。わたしは男に飢えてる寂しい女ではないのです。
パンだけ食べて、急いで着ていく服を選びます。白のワンピースです。もう春ですから。ワンピースを着て、鏡の前で身なりを確認します。目の下にはさすがにクマがうっすら現れていましたが、ファンデーションで隠すまでもない程度です。いつもはしゃくれているアゴも今日はチャーミングに見えます。玄関のドアを開けて意気揚々とわたしは柔らかい陽が照っている外へ出て行きました。
いつもの電車に乗り込みました。ラッキーなことに席が一つ空いていて座れたので、いいタイミングです。やっとこさ指先でゆうとくんに送るメッセージです。
あやね:「おはよー。これから仲良くしてね」
送りたいことは山ほどありましたが、いざ送るとなったら何を送っていいかわからなくなってしまいました。わたしから思いを伝えるよりかは、ゆうとくんにわたしをどんどん引き出してほしい。ゆうとくんに全てを委ねたくなりました。
あとはもう展開が早いです。わたしが専門学校で四つの授業を終えて電車に乗って夕暮れの中の家に帰るまでに、わたしはあれよあれよと自分のことをゆうとくんに引き出されました。
実家も神奈川だけど学校の近くで一人暮らしをしていること。十歳以上離れた兄と姉がいること。フィリピンのハーフで小学校まで現地にいたからタガログ語が話せること。中学は科学部で唯一の女子部員で男同然に扱われたこと。高校は演劇部で部長を務め弱小だったのをコンクールで金賞を取るところまで部を盛り上げたこと。
ゆうとくんはとっても興味深く聞いてくれます。たまにわたしもゆうとくんに質問をするのですが、自分のことはそこそこにして、その話題に関連した質問をわたしに投げかけてきます。一度駆け引きをしてみようと思い、返信するのを止めてみたのですが、わたしの方がやりとりを待ちきれなくなって一時間でメッセージを送らないわけにはいきませんでした。ゆうとくんの返信は常にとっても早いので、今日一日だけでお互いの(といってもゆうとくんばかりだろうけど)情報を知ることができました。
ごはんを炊いている間に送ったわたしのメッセージでゆうとくんとの交流は止まりました。おそらくゆうとくんはバイトとかの時間なのかもしれません。
ゆうとくんと出逢ってから、他のオスからのメッセージやいいかも!は全て無視していました。アプリを開く度にオス共から気に入られているというお知らせの通知が来る度、一瞬は自尊心が高まるものの、すぐにうざったい気持ちになりました。そんな状況を見越してか、ゆうとくんはラインのアカウントをわたしに教えてくれました。ゆうとくんとのコミュニケーションの場は出会い系アプリからラインに移行しました。これで、ひたすらウザい通知が鳴り響くだけの出会い系アプリを開かずに済むようになりました。
炊飯器のごはんが炊けたアラームが鳴ったので、スマホを机の上にそっと置いて、軽くステップを踏みながら台所に向かいます。今日の晩ご飯はカレーです。料理上手なフィリピン人の母が作った料理の中で唯一わたしのが美味しいと思ったのがカレーです。大きい鍋にルーを作り置きします。三日分はありそうです。もし、ゆうとくんが食べてくれるのなら二日は持たない気がします。
毎週金曜日のゴールデンタイムにやる楽しみなドラマを観ながらの食事です。ゆうとくんからのラインのメッセージはまだ来ていません。なぜだか作ったカレーはいつも通りの良い出来なのかわかりませんでした。ドラマの内容が右脳から左脳に流れていきます。観終わった時、夢を見ていたかのように思い出せませんでした。
「ピローン」
ゆうとくんからのライン通知が来たのは、皿も洗いお風呂も入って髪を入念に乾かしている時でした。
即座に内容を確認します。返信が遅れたことを謝ってはいますが、なんで遅れたのかが書いてありません。謝った後は、またわたしに対しての質問でした。すっかり日も落ちたまだ日が短い三月の夜に、ひとたび電気を消してしまうとあっという間にわたしの部屋は闇に包まれるでしょう。昨日のように、暗闇の中、スマホの明かりだけ点けていたくありません。そう思ったわたしは勢いよくスマホの画面を指で高速に動かしていきます。
まりあ:「謝らないでよ〜。都合のいい時に返してくれればいいんだから。そうね、高校入学前に声優になりたかったのに演劇部に入ったのは、演技を声優に生かせると思ったから。 でも、ゆうとくんと話してるの本当に楽しい。実は、一昨日に彼氏に振られたばっかなんだ。それで傷心中なの笑 ゆうとくんの声聞きたいなーなんて笑」
ゆうとくんの声が猛烈に聞きたくなってしまいました。ラインに移行してからわたしの本名をゆうとくんに教えました。でももっと自分を出さなければいけません。彼氏に振られたという、他人には言いづらいことをさらけ出してゆうとくんにアピールします。でも百パーさらけ出しているわけではありません。彼氏に振られて傷付いてるのは確かですが、単純にゆうとくんの声が聞きたいだけなんです。
「ピローン」
ゆうとくん:「それは辛かったね。僕なんかでいいならいつでも電話するよ。今とか平気?」
効果は抜群のようです。声が聞きたいという部分だけに反応してきました。狙ったようにいったのに、もう少し溜めるとかないのかな、と思うわたしに驚きました。でも鉄は熱いうちに打てです。今大丈夫とラインすると、すぐにラインの無料通話がかかってきました。
「もしもし」
「もしもし、ゆうとです。改めてはじめまして。なんか緊張しちゃう」
素直に緊張している感情を第一声で言っちゃう潔さにグッときてしまいました。
一通り、元彼の愚痴を聞いてもらいます。実際、それが本題だったのですから。でも、わたしは沈黙を作らないように頭を回転させて喋りたくもないオスのことばかりを話します。ゆうとくんは実に様々な受け答えをしてくれました。また、わたしが言葉に詰まると、わたしが言いたいことを補完して言ってくれたりもします。わたしの愚痴を聞いてほしいがための電話ですが、わたしはゆうとくんのことが聞きたいのですが。
そんなわたしを察知してか、ゆうとくんはさっきラインで途切れたわたしの声優になりたいがために演劇部に入った話を振ってくれました。わたしはひたすら喋ります。ゆうとくんはひたすら聞きます。
だんだんと埒が明かない気がしてきました。わたしは再び釣り針を垂らします。
「今は声優になりたいとかないかな。現実的にポリマー目指して動物の専門学校行ってるくらいだし。あ、でも演技が好きなのは変わらなくて、映画とかよく観に行ってるよ。最近は『はじまりのうた』っていうやつが面白そう」
さすがにゆうとくんもわたしの誘いの匂いを感じ取ったらしく、一瞬の間のあと、そうなんだ、どんなジャンルの映画が好みなの、とわたしの意図しない方へ会話を繋いでいってしまいました。
日付が変わる頃、九対一の割合でわたしが話してきてさすがに疲れたので、わたしはオススメの洋楽をユーチューブで流すことにしました。ゆうとくんも同じライブ動画を観てくれてるらしく、洋楽をあまり聴かないみたいですが、感想を言ってくれます。
わたしも口数が減ってきてお互いに沈黙の時間が多くなってきました。嫌ではないですが、表情が見えないので、ほんのちょっぴり居心地は悪いです。
「あ、あのさ。さっき面白そうって言ってた映画なんだっけ」
針に掛かりました。ゆうとくんは空気を読むのが素晴らしいです。
「はじまりのうた?」
「それ。一緒に観に行こうよ。明日というか今日だけどヒマ? 土曜日でお互い学校休みだろうし」
土曜日。生憎の雨です。三寒四温ですからこんな日があってもしょうがないです。わたしは濡れてしまうのも気にしない春の装いの白のワンピースで待ち合わせの駅に降り立ちました。ゆうとくんはもう着いて改札前で待ってくれているそうです。駅構内のトイレで傘を丁寧にたたみ、身なりを整えてその改札へ向かいます。遠目からでもわかるべっこう柄のメガネを身につけた男の人がいます。あの人だ、改札にスイカをタッチしたわたしは満面の笑みで彼の前に躍り出ました。
刹那、その人は表情を歪めました。ほんの一瞬だったので、わかりづらかったのですが、たしかに眉間にしわが寄り、口元がわずかに左右非対称になりました。
そして、その人の目線の先にあったのは、わたしのアゴでした。
認めましょう。わたしはしゃくれているアゴがコンプレックスです。フィリピンのハーフだったら、皆イメージするのは美形ばかりかもしれません。現に、わたしも現地にいた小学生低学年までは完璧な容姿でした。でも、わたしの両親が幼児だったわたしをうつ伏せで寝かしつけることが多かったので、うつ伏せが落ち着く寝る体勢でした。わたしのアゴは成長とともにどんどんしゃくれていきました。
「こんにちは。雨なのに、来てくれてありがとうね」
もうその人は笑顔になっています。ジャニーズ系の顔にべっこう柄のメガネが映えています。わたしもこんにちはを返します。
駅から近くの映画館で、『はじまりのうた』を観ます。チケットはその人が昨晩のライン通話の後にネットで予約をしてくれていました。
指定席に着いたわたしは右隣に座っている整った男の顔を見ます。彼は、ん?と首をかしげた後、今スクリーンに映った予告映画の感想を言ってきます。彼は優しい人です。アゴに難色を示したのも一瞬のことで、何よりわたしが出会い系アプリのプロフィール写真にアゴを隠したものにしていたのが悪いです。
映画は、売れない音楽プロデューサーと美人の元歌い手が、バーで出逢うところから始まります。その歌い手が歌うシーンで、わたしは彼女の端正なアゴばかり観ていました。
「映画、まりあちゃんがオススメしてくれた通り、よかったね」
映画が終わってホールが明るくなってすぐに、その人は感想を言ってくれます。その後、ここのシーンのこういうところがよかった、あのシーンはどういう意味だったのかな、あのセリフって最後にこんな風に効いてくるよね、などなど次々に言ってきます。ああ、やっぱり頭が良いんだなと思うと同時に、沸き上がってきた感情のまま言ってしまいました。
「良い映画は、よかったね、でいいじゃん。わざわざ分析することもないでしょ」
その人はひるんでしまいました。わたしはこれまでその人に対して、同調しかしてこなかったのです。わたしは好きな人に対しては良い子ちゃんを演じてしまうのでした。でも本音をズバズバ言ってはいかん、と思い直しました。目の前にいる男は、どストライクな顔をお持ちなんですから。
午後三時に集合して映画を観たので、そろそろお腹が空く頃です。映画館の周りには食べるところがたくさんあります。その人はわたしに嫌いな食べ物があるか聞いてきましたが、特にないと答えました。
「こういうところどうかな」
ホテル前の品のいいメニュー表の前に連れてこられたわたしは、返答に困ってしまいました。値段がお高いです。いいよ、と言ってしまえば美味しいディナーが頂けますが、お高く着いたアゴ女だと思われても嫌です。かと言って、却下すれば彼の出端をくじいてしまいます。べっこう柄のメガネの奥の目が多少揺らいでいるのをわたしは見つけました。彼はどうやら見栄を張っているようでした。突破口は彼の本当の気持ちを汲んであげることだと咄嗟に思いつきました。
「あの、わたし、そこのサイゼリヤでもいいよ?」
彼の顔がほころびました。
「いや、実はおれもちょっと高いかなって思っちゃったんだよね。ありがとう。サイゼは安いし、うまいからいいよね」
騒がしい店内へわたしたちは入っていきます。彼はセットメニューにドリンクバーを、わたしはステーキとドリンクバーを頼みました。
ああ、いくらメッセージのうまい彼でも、コスパの良いファミレスが好きな普通の大学生なのだなと思ってしまいました。今の発言に嫌みは含んでませんよ。ただ、昨日のライン通話から感じ取っていましたが、直接のコミュニケーションに彼は慣れていないようです。今もわたしがべしゃり続けていますが、わたしが黙ると不自然な間が訪れます。わたしたちの相性が悪いのか、それとも単にこのべっこうメガネくんが女慣れしていないだけなのか。
「わたし、起業家向きってよく言われるんだよね〜。思えば、高校時代の演劇部でそういった能力が磨かれたのかも。だって、わたし一年の時に入部した時はわたしと先輩二人しかいなくて廃部寸前だったんだから。そこから校内の知り合いに声をかけまくって、お試し入部させて、脚本を書く人、照明、音響、キャストとか色々なポジションに人を割り振っていって、わたしは舞台監督として、部員や部員になろうとしてる人たちの悩みを聞いたり、稽古をスケジュール通り進めたりして、なんとか舞台本番を成功させたりしたんだから。そういう成功体験を一回でも積むと仮入部員が本入部したりしてね。演劇部の評判が上がってどんどん部員が増えていって、部員同士の団結も強くなっていったんだ。最終的に県のコンクールで金賞を取るまでになったよ。わたしが部長の任期を終えた三年の秋には、三人だった部員が五十人になってたし」
そこまで言ったところでわたしはストローを咥えてコーラを口に含みます。
「・・・あ、そうなんだ。・・・でも、そこまでいくなんて、まりあちゃんはすごいね」
この人はどんどん歯切れが悪くなっていっています。わたしが喋れば喋るほど、べっこうの奥の目が死んでいくのがわかります。たまに向こうが話すと、もうどうでもいいことかもしれないですが、まだ彼に好かれようとする自分がいて、彼の話に同調してみせます。本当にあなたの言うことに共感していると思わせるために、身振りや表情や声色などなど総動員します。伊達に演劇部の部長をやっていたわけではありません。しかし、彼の方はさっきからドリンクバーのおかわりのため何回も席を立ちます。がぶ飲みするものだから、トイレに行く回数もどんどん増えます。彼は緊張してのどが渇いてしまうのか、それともわたしの話が退屈で息抜きのために席を経つのか、わたしにははっきりわかりません。とりあえずもうちょっと話して欲しいです。聞き上手が女にモテるという、巷のテンプレートを頭に叩き込んでいるのかもしれませんが、そんな単純なことではありません。有名大学に通っているというのも、ただテンプレートを効率よくインプットして試験の時にアウトプットするのが得意ってだけの人間なのでしょうか。日本の義務教育の模範とされるやり方で恋愛もうまくいくとでも思っているのでしょうか。
大分話し込んだのか(主にわたしが)、お互いに終電の時間が迫ってきます。そろそろ出ようかと彼が切り出します。会計は全て彼が払おうとするので、わたしは千円を会計のお金を入れるトレーに素早く置きました。いいからいいから、の彼の言葉をいいからで振り払います。安いごはん代すら払わないのかと思われたくないし、なにより、全て支払いを彼に任せてしまったら、わたしは負けな気がします。わたしを支配下に置こうとするのを、わたしはまだ当分この男に対して許しません。
まだ雨は降り続いています。映画館から駅までは傘を差して、駅構内は屋根があるので傘をたたみます。お互い逆方面の電車ということで、では、また、と分かれようとしました。改札に入る前のところで、わたしはメガネに呼び止められました。何をする気でしょうか。
・・・ちょっと沈黙が長過ぎます。わたしは改札内の電光掲示板を見るために首だけ後ろを振り返りました。よかった、電車が来るまでまだ五分あります。またメガネの方に首を戻したら、くぐもった温かい空気にむせそうになりました。メガネが目の前にありました。うわ、と思ったのも束の間、メガネは顔ごと下にがくんとスライドしました。そして、わたしのしゃくれアゴはメガネの唇で湿りました。
反射的に持っていた傘で眼前のメガネを薙ぎ払っていました。顔から離れざるを得なかったメガネが吹っ飛びます。何をするんだ、の一言も虚しく、わたしは第二撃をその端正なジャニーズ顔めがけて振り下ろします。ぐわっ、美しい口は醜い音を発しました。理由はどうあれ、お前はわたしのアゴにキスをしました。第三撃、第四撃と顔だけ狙っていきます。口にキスをしようとしたら雨で濡れた床にすべってアゴにしてしまった、なんて言い訳をしたとしても許しません。唇だけじゃなく、舌もアゴにつけてきましたね。わたしのアゴを舐めるな。メスのアゴを舐めるな。わたしのアゴが嫌いなくせに。このオスブタめ。オスは床で倒れた状態になっています。わたしは構わずスイカ割りの要領で傘を振り下ろし続けます。傘はもはや原型をとどめていません。オスの返り血を浴びて傘は真っ赤っかになっています。オスの顔はどんどん醜くなっています。わたしはその顔を見て余計に殺意が沸いてくるばかりです。まだ形のいいアゴを傘で砕いていきます。このオスめ。このオスクワガタめ。メスクワガタのアゴは短くてかよわい?違います。短いからこそ強力なのです。
後のことはよく覚えていません。時間感覚もあいまいです。誰かに取り押さえられた後、車に乗せられました。ずうっとうるさい音がついてくるなと思っていたら、それはわたしが乗る車が鳴らしていたもので、それでパトカーに乗っているんだと気付きました。最初に行ったところはそれで警察署なんだなとわかりました。その後すぐに移動させられ、渇いた空気が流れる無機質な部屋で大人達に代わる代わるたっぷり尋問されました。また移動があり、なんだかまだ解放はされないという話でした。最終的に最初にパトカーで行った警察署に再び連れてこられました。
何日も警察署の牢屋に閉じ込められていることに、わたしはようやく麻酔から醒めたみたいに気付き始めたわけです。
「メスクワガタのアゴはオスのなんかに負けない」
「わたしのアゴはしゃくれてない」
「メスのアゴを舐めるな」
そう答えるしかありません。でもそのせいで取り調べが進まないみたいです。わたしはなかなか解放されません。
夜に暗くて狭い壁と格子で囲まれた部屋に横たわっていると、まだ実家にいた小学生のとある頃を思い出します。既にわたしは自分の部屋を与えられていましたが、わたしが部屋を独占できたわけじゃなく、クワガタのメスと一緒にその部屋で暮らしていたわけです。閉じ込められた虫かごケースにメスクワガタは住んでいました。元いたつがいのオスのクワガタは先に死んでしまっていました。残ったのはメスクワガタでした。わたしとメスクワガタの生活リズムは全くの逆でありました。わたしが寝付けば彼女は動き出し、彼女が眠って動かなくなるとわたしは部屋の電気を付けて活動を始めます。お互いにお互いを厄介者だと思っていました。昼間にわたしは虫かごケースを開けて彼女を触ったり掴んだりします。でも夜になって気持ちよく寝ていると、ガサゴソ彼女の動く音で起こされるわけです。できるならじっとしていてほしいなといつも思っていました。
ふと、この暗くて出られない空間にわたしがいるのが、まるであの時のメスクワガタみたいと思いました。わたしを監視している警察が、あの頃のわたし。見られているわたしはあの頃のメスクワガタ。わたし大人しくするからいじめないでね。あの時はごめんなさい。好きでアゴがしゃくれてクワガタみたいになって、こんな虫かごケースに入れられたわけじゃないんです。
そんなわたしの思いもむなしく、壁の上の方に空いている格子窓からの月明かりがわたしのしゃくれアゴを照らします。しゃくれアゴは黒光って闇に映えました。