化粧直し
化粧直し
900字程度の短めの短編です。
異変に気づくまでそこに座っていて。その間に私はここを去って行くから。鏡を何度視ても私の表情は微動だにしない。今や髪のほつれさえも完璧に仕上がっていた。身体の底という底から新しい感情が湧き上がってくる。それに溺れ満たされた時、過去の全てが上書きされ、足跡すらも見えなくなるだろう。私の何かが損なわれることも、傷つくことさえも今は恐ろしくない。
これまでも何度も重く悩み、苦しい決断をしてきた。比べて今の決意はごくありふれているような、些細なものだった。なのにこれほどまでに全てが変わって見えるのはなんでだろう?手の震えさえも止まっている。自分の身体を自分の意志で動かしている、という全能感を、頭が麻痺してしまいそうなほど堪能していた。素面のままで酔っているような感覚だ。決断を積み重ねれば積み重ねるほど、私は平静を取り戻していった。そして今、積み重ねた全てを簡単に崩す。結局はただそれだけのことなのだ。決め手はペーパーナイフのように薄く、軽く、鋭くない方が向いている。どれだけ長く時間をかけようと、どれだけ高く積み重ねたものだろうと、壊すことは今の私にとっては容易いことなのだ。
最後に口紅をポーチにしまってから、丸ごとゴミ箱に捨てた。店内に流れる曲の名前を思い出せない。今は自分の足音だけに聴き惚れていた。水を運ぶウェイトレスの横を過ぎて行く。視線は無駄な方向に逸れることなく、自然な微動で私の意志に追従していた。
あなたは未だに何も気づかない。数分前に私はあそこで、あなたの指を濡らした滴を視ていた。それで私は席を立った。理由はなんでもいい。考えることすら面倒だった。そしてあなたは今も、蝋燭の明かりがグラスの中の水面の上で揺れる様を見つめている。そんなあなたの横を過ぎて行く。あなたは顔を上げずに、ずっとそこで留まっている。いつのまにか私は透明になってしまったようだ。私が大切にすればするほど、相手からは何も見えなくなってしまう。けれど私は明かりに刺されても揺らぐことなく、真摯に透過していってしまう。
誰かに声を掛けられる前に店の戸を閉める。夜街灯をたどり歩く最中に、タクシーを捕まえた。あなたはもう二度と私の異変に気づくことはないのだろう。たとえ私の呼吸があなたの虹彩を揺らすほど近くにいようと。
終