視財(途中まで)
視財
小山峻
目を覚ますと、部屋の照明がついたままになっていた。視界の右側に、白い枕と灰色のシーツが広がっている。ベッドで横になって漫画を読んでいたら、寝落ちをしたらしかった。下にしていた右肩のしびれ具合から察するに、割と長いこと眠っていたようだ。明かりをつけたまま、布団をしかずに長い間寝てしまうと、何だか損をした気になる。中田はあぁとため息をついて仰向けになった。それより今は何時だ。カーテンの隙間から、夜とも早朝ともとれる微妙な紺色の空が覗いている。寝返りをうち、目を細めて壁にかかった時計を見る。視認できるのは丸い時計の輪郭だけで、長針も短針もどこにあるかはわからなかった。携帯電話を探そうと枕の付近を手でまさぐるが、数冊の漫画しか見つからない。向かいの机に置いたまま眠ってしまったか。低く唸りながらのびをして背中を起こす。机の上に本やら教科書やら平らそうなものがあるのはわかるが、携帯電話があるかまではわからない。中田はくの字のまま、再び背中をベッドに戻した。天井に向いた二本の爪先を、左下に向けて勢いよく振り下ろす。そのままベッドから起き上がろうとしたが、上半身が起き上がり始めたところでその動きは止まった。左足が平らでない場所に着地したからである。メシャリという、貧弱なプラスチック製の何かが壊れる音が左足の下でした。箸ほどの太さの棒が折れたような気がする。眠気はほんの一瞬で消え失せた。痛みはなかったが、中田は悪寒を感じた。左足をゆっくりと上げ、その下のものを見ようとする。木製のフローリングの上に、細く茶色い塊が落ちてあるのは確認できた。その正体を、中田は察していた。気のせいというわずかな望みにかけて、顔をマットレスと同じ高さまで近づけて確認する。中田のまぶたは大きく開いたまま硬直し、しばらくの間呼吸を忘れた。その正体は、中田の眼鏡であったのだ。
「理不尽じゃないか?」
「なにがさ」
中田は食堂で、ハムカツ定食をほおばる池沢に話した。眼鏡がなくても、池沢のシャープな顔の輪郭は判別することができる。中田はぼやけて表情の読めない池沢をにらみながら、箸をテーブルに置いた。
「どうして俺は、人の表情を満足に見ることができないんだ」
「それは、さっき眼鏡をしていなかったからだろう」
池沢は左の人差し指で中田のこめかみを指した。
「だがそれは池沢も同じだろう」
「俺は目悪くないから」
「そこだよ。そこが理不尽なのだよ」
中田は鉛筆の芯をトンと机に叩いた。どうして池沢の目は良くて、俺の目は悪いのだ。
「俺に言われても困る。ゲームとかスマホとかをやりすぎたせいじゃないのか」
「視力に差しさわりが出るほど、全く微塵もこれっぽっちもやってはいない、というのはいささか誇張的ではあり……」
「はっきり言え」
「長時間しょっちゅうやってましたよ」
だが池沢、お前もあの電子画面共の反則的な魔性の吸引力を知らない訳ではあるまい。あんなにほどよく便利で愉快な気持ちになれて、バリエーションもアリの巣みたいに細かい。しかも手軽でどこでもすぐにいじれるときた。そんなものが目の前にあれば、半永久的に見てしまうに決まっているだろう。
「それなら自重すればいいだろう。なるべく意識しないようにさ」
中田はため息をつき、池沢に周りを見るよう手の平を掲げた。今の時代で、電子画面を避けて生活することができるか? この食堂にいる人でも、半分はスマホをいじっているではないか。目が良くなくても、俺だって人の子さ。隣の人がスマホをいじっていて、俺もおんなじのを持っていれば、これといった理由もなく気になって、電源のスイッチに指が伸びてしまう。それは悪行か? 違う、人の性だ。デメリットがあることを知りつつも、まさにその瞬間を満足するために、手を出してしまう。酒と同じだ。何百年も前から、遺伝子に染みついている性なのさ。
池沢は中田の言い分を察したらしく、二、三度小さく頷いた。しかし中田は満足したわけではない。電子画面に目が行く境遇は、池沢も同じである。みんながみんな、視力を奪われる危機に常に瀕している。それなのに、どうして俺と池沢のように、圧倒的な差が生まれてしまうのだろう。
「だったらさ、暗いところではやらないとか、パソコンをやっている途中に休憩をはさむとかすればいいんじゃないか」
「そんなこともう実践しているわ! 俺だって毎日目のマッサージをやっているし、ブルーベリーだって常人の二倍の量は食べている。レーシックは怖いからやっていないけど、その手の努力は一通りこなしている」
こなしていても、ダメなのだ。視力というのは、そんな小手先の術でどうにかなるような柔なものではないのだ。中田は目を細めて、窓の向こうの大木を見た。風にあおられて揺れている。しかし中田の目に映るのは、大きな黄緑色の塊であり、葉の一枚一枚は全く見えなかった。
「視力は、ある種の財産なのだ」
中田はぽつりとつぶやいた。
「財産は言いすぎじゃないか」
「馬鹿沢め。十分に持っている奴は、そのありがたみがわからないのだ。考えてもみろ。視力が悪い奴は、一メートル先の文字も読めないし、誰の顔かも判別することができないんだぞ」
おかげで今日は、まだ昼なのに散々な目に合った。家を出る時は鍵を置いた場所が見つからず、コンビニで飲み物を買うときには小銭の判別に時間がかかり後ろの客に舌打ちをされた。大学に着いてからは、挨拶をしてくる相手の顔がわからず、敬語を使うか悩んだ結果、敬礼をしてしまった。声だけで誰かわかったのは、池沢くらいである。
その池沢と共に受けた授業でも、板書は見えず、目を細めて見ていたら先生から「眠いなら顔を洗ってこい」といらぬ注意を受けた。なんて日だろう。
それから授業が終わり、食堂に向かって二人で階段を下っていたら、池沢が肩を叩いてきた。池沢は正面にある窓の上方に、まっすぐ顔を向けている。どうやら向かいの校舎の上の階を見ているらしいが、何があるかはよくわからない。何事だと聞くと、池沢は視線をそらさずに返事をした。
「中田、あの人パンツが見えている」
言い終わる前に、中田は窓に顔を戻した。まぶたにできる限りの筋力を込め、目を細めて対象を捕らえようとする。多少ながら視界がクリアになり、向かいの上の階に女性らしい色合いの服を着た人影があるのに気が付いた。身体の下の部分が肌色に見えるということは、確かにそうなのかもしれない。中田はさらに目に力を込めたが、どうしても細部まで見ることができない。あの肌色と、スカートらしき水色の何かの間に、恐らく下着はある。しかし俺は見られない。隣の池沢は、まじまじと凝視しているというのに。俺はよい視力を持ち合わせていないから、こんな目に合うのか。本当になんて日だ。これまでの半日を振り返り、目頭が熱くなってきた。そして改めて痛感した。視力は、財産だ。いいや、力だ。そして俺は、ただただ無力だ。
「眼鏡やコンタクトレンズを付ければいいじゃないか」
池沢が小さなコップに入った煎茶を飲んだ。中田はずれた眼鏡を戻す時のように、人差し指をこめかみに当てた。
「眼鏡やコンタクトレンズが全て平等にすると思ったら大間違いだ。いいか。眼鏡なんか踏めば簡単に壊れるんだぞ。そんな神経質なものを顔に乗せる側の、ささいだが常にまとわりつく気苦労を想像できるか。バスケなんか集中できたものじゃない」
「じゃあコンタクトは」
「あんなもの、ドライアイにとっては苦痛でしかない。目薬をなくした途端に、コンタクトレンズは拷問器具になることも忘れるなよ」
「でも、それくらいなら我慢できるだろう」
「ど阿呆!」と一喝し、中田は池沢のキャベツを奪い取った。
我慢しなければ同じラインに立てないという時点で、全く平等ではないではないか。そもそも眼鏡もコンタクトレンズも、買うのに一体いくらかかると思っているのだ。継続的な費用も考えると、洒落にならない額になる。眼鏡ショップやコンタクトレンズストアで会計をする時の、あの何とも煮え切らない思いを池沢は知らないのだろう。金がなければ人並みにすらなれないのかという、あのどうしようもない劣等感を。
「眼鏡というのは、金貸しみたいなものさ。たしかに眼鏡をかけたら、飛躍的に視力が上がる。世界が変わる。感動すら覚える。だが『これ以上目が悪くならないようにしないと』という戒めは絶対に生まれない。生まれたとしても決して長続きしない。視力そのものにまつわる努力は一切しないで、簡単に視力が回復したのだから。むしろ『今までもっとひどい視界で生活してきたのだから、少しくらい目が悪くなってもいいだろう』という悪魔のささやきを簡単に聞き入れてしまう。そして再びスマホを、パソコンを、ゲームを。長時間、休まず、暗い場所で、やり続けてしまう。確実に目はより悪くなっていく。しかしその悪化に、本人は気付かない。当然だ。どんなに視力が悪くなっても、裸眼から眼鏡をかければ、裸眼の時よりは目が良くなっているのだから。昨日と今の視力を比較することなどできはしない。悪化を自覚させられるのは、年に一度の健康診断の時だけだ。
眼鏡というのは、かけ始めたら最後、一度は夢を見させられ、あとはどんどん本来の視力がむしり取られていく。眼鏡をかけるという行為は、いわば視力を借金しているようなものなのかもな」
中田はこめかみに当てていた人冊子指をずらし、額に手の平を当てた。自分は今までどれくらいの視力を、いたずらに失ってきたのだろう。自分が悪いということはわかっている。ただその気持ちの甘さは、自分だけのものではないはずだ。この池沢にだって、きっと似たような愚かなる部分があるはずだ。だがしかし、どうして池沢は財産を持ち続けることができたのだ。一体俺が、何をしたというのだ。
どうせ教室のスクリーンに映る文字など見えやしないから、中田は午後の授業を受けず家に帰ることにした。
友人か先輩か後輩か、そもそも学生かどうかもわからない人々を通り過ぎて、校門を抜ける。大学と最寄り駅の間にはまずまずの賑わいを見せる商店街があるが、寄り道をしようという気には全くならない。普段ならば必ず目を引く定食屋のカツ丼のレプリカや、古本屋の窓から見える漫画が、どれもぼやけたモザイクの一部にしか見えないのだ。何となくカラフルではあるものの、その色に対して意味を持つことができない。目に映る鮮明さが失われると、世界はこんなにもつまらないものになるのか。何もうれしくない発見を胸に抱きながら、中田は足早に商店街を歩き去った。
駅に着いた。想像はしていたが、電光掲示板を見上げても何も読めない。ふと、大学一年生の夏に、タイに一人で旅行した時のことを思い出した。当時も今もタイ語は微塵も理解しておらず、着いたばかりの頃はえもいわれぬ不安を感じたものである。そんな中、中田に安心感を与えたのは、向こうの駅の電光掲示板であった。糸くずのようなかたちをしたタイ語の表示の中に、電車の出発時刻、すなわち数字がありありと映されていたのである。読める。タイの人間ではない自分でも、この数字が読めるのだ。言葉も食事も何もかもが違っており、水と油のように自分はここに溶け込むことはできないのだろう。電光掲示板は、そんな孤独に打ちのめされていた中田のまぶたを熱くしたのだった。
今は違う。日本語は当然のことながら、あの時自分を孤独から救ってくれた出発時刻は、一つの数字も読み取ることができない。目球の奥に力を込めて、目を細めて電光掲示板を睨む。輪郭のない緑色と橙色の光はただただ佇み、時折赤い光が点滅しながら右から左へと流れていくだけだ。日本人で、日本にいながらも、自分はここに溶け込むことはできないのか。中田はベンチに腰をかけて、出発時間がアナウンスされるのを待った。右に視線を移すと、隣の男子高校生が本を読んでいる。黒と白の並びが不均等なところを見る限り、どうやら漫画のようである。内容まではわからなかった。
手持ちぶさたとなり、中田はポケットからスマートフォンを出した。パスコードの解きかたは指が覚えているので、画面を見ずにメニューを開くことができた。どの位置にどのアプリがあるのかも大体は覚えている。特に通知は来ていなかったので、中田はこれといった意味もなく、今まで無造作に撮り貯めていた写真を眺めることにした。
黒板に書かれたテスト範囲、サークルで撮った集合写真、青と緑の対比が美しい箱根の湖。どれも本物が目の前にあるかのように鮮明に映っている。懐かしさを感じたが、同時に胸の奥が音もなく砕けていくような錯覚も感じた。丸裸の自分は、この光景を直接この彩度で見ることは決してできないのだ。眼鏡越し、カメラ越しでなければ、その美しさを知り得ることはできない。果たしてそれは、本当の本物の美しさと呼べるのか。そもそも眼鏡で見るという行為自体、「見る」と呼べるのか。俺は今まで、黒板、人、風景を見ていたのではない。それらが映っている眼鏡のレンズを見ていただけだ。まやかしと何ら変わりないのである。
中田はメニュー真面に戻し、スマートフォンをゆっくりと離していった。右上の時刻を表す四つの数字がぼやけ始めたところで手を止めた。自分の目とスマートフォンの画面との距離を、空いている左手の指を伸ばして図った。ちょうど親指と小指を外側に伸ばしきった左手がぴったりと収まった。
約十五センチ。自分が自分の力で認知できる世界は、たったの十五センチなのだ。文字通りのスモールワールド。十五センチより外の世界に出るには、眼鏡が映す外の風景らしきものを見なければならない。だがそれは、外の世界を知ったとは言えまい。部屋のパソコンでエベレストの画像を見て、直接エベレストを見た気になって満足しているのと同じだ。
ホームに男声のアナウンスが鳴り響き、数秒後に電車が到着した。中田は静かに立ち上がり乗車した。車内の乗客はほとんどおらず、ホームからの風が背中に強く当たった。
入った扉の右前方で、二人の女子高生が並んで座っていた。朗らかな声で雑談をしている。片方の声が、小鳥のように甲高いのが気になって、中田は彼女らを見た。肌色の顔と、やや茶色気味の肌色の顔が、互いを見ながら会話を続けている。中田はじっと見つめた。目も凝らした。それでも、どちらの口が動いているのかはわからなかった。
相手の表情がからない。それがこんなにも気味が悪いものだとは思わなかった。人間の目と口の位置は、大体の察しが付くが見えない。いや、察しが付くといっても、中田が今まで見てきたのは、眼鏡のレンズに映っていた人間の顔の形をしたイメージに過ぎない。本当の人間の顔を、きちんと、しっかりと見たのは、もう十年以上も前のことかもしれない。
俺には本当に何もなく、何も知らなかったのか。力も財産もない、ひ弱で無力な人間であったのか。中田は窓の外をぼんやりと眺めた。空が青いということしか認識できず、思わず視線を左にそらした。端の席の上の広告に、黒い服を着た長い茶髪の女性らしき像が載っている。中田は発車による揺れでよろめきながらも、その広告に近づいた。まさに目と鼻の先まで来たところで、その像はテレビで見たことのある男性バンドマンであることに気が付いた。中田は男の写真に右手の平を叩きつけ、うなだれるように席についた。電車の小刻みな揺れが、二つの眼球の芯まで揺さぶる。中田は目を閉じて、それを必死にこらえていたのであった。
閉め切ったカーテンの四隅から、陽の光が差し込んでいる。目を開けると、部屋の内装が薄暗いながらも確認できる。チャイムが鳴った。中田はあくびをしながら腰を上げて、老婆のように背筋を垂らしながら玄関に向かう。つむじを掻きながら扉を開けると、そこには池沢がいた。
「何してんの」
中田は眼鏡を壊したあの日から、かれこれ二週間くらい大学に行っていなかった。池沢は被っている授業が多いために、中田のことを気にかけて来てくれたのだろうか。わざわざすまんなと中田が礼を言うと、池沢は頷きながら八千円返してと答えた。中田は、飯つくるからもう一週間だけ待ってくれと、乞うように池沢の手首を両手で掴んで部屋に招いた。
「眼鏡はまだ直らないのか」
池沢が本棚にある漫画を取り出して、ぱらぱらとめくっていた。中田は温めたフライパンに溶いた卵を流した。軽く広げてからご飯を入れて、まんべんなくかき混ぜた。
「とっくに直ってるよ。ほら、そこにあるだろう」
中田はあごで池沢の目の前にあるちゃぶ台を指した。ちゃぶ台のちょうど真ん中に、延べ棒のような形をした黒い眼鏡ケースがある。池沢は漫画の読んでいる箇所を開いたまま床に置き、箱を開けた。中にはこげ茶色のふちをした眼鏡が、陰に潜むようにたたまれていた。
「つけないのか」
「つけると気持ち悪くなるんだ」
中田は細かく刻んだハムをフライパンに入れながら答えた。
「それは度が合っていない証拠だろ。新しいレンズに変えてもらえよ」
「いや、きちんと視力検査はやり直したさ。その眼鏡も今の俺の視力にぴったりと合う度になっている。それなのにダメなんだ」
「俺は経験したことがないから詳しくはわからないけれど、眼鏡を新しくしたらはじめはそうなるものなんだろう? 我慢していればそのうち慣れるんじゃないのか」
「そういう次元の問題じゃない。慣れる慣れないという以前に、眼鏡を眼鏡として扱えられないんだ。どういうわけか、俺は眼鏡越しにものを見ることができなくなってしまった。遠くの風景を見ようとしても、その前に目から一センチくらいのところに眼鏡のレンズがあるということが、どうしても気になるようになってしまった。視界の外側を覆っているこげ茶色の眼鏡の縁とか、鼻あてを繋いでいる針金みたいなジョイントとか、レンズに着いたほんの小さな埃でさえも、気になってしょうがない」
「じゃあ今はコンタクトなのか」
「一度つけてみたが、眼鏡以上にひどかった。まあ眼鏡との近距離感で苦しんだんだから、コンタクトレンズはなおさらダメだよな。なにせゼロ距離だから。今になって考えてみると、いかにも神経質で弱弱しい眼球に、俺は平然と人工の膜をべったりとつけ続けていたんだよな。むしろ今まで平気だったことの方が、信じられん。ともかく今は、裸眼だよ」
ぼんやりとフライパンの中の具材を見つめていると、白や黄色、ピンクなど様々な色がじうじうと音を立てて混ざり合っていく過程を見ることができる。しかし、どれが米でどれがハムなのか。その違いを確認することは、中田にはできなかった。
「お前、そんなんで生活できるのか」
「文字を読む機会はだいぶ減ったが、日常的には、意外にも支障はないんだな。身の回りに何があるかは、身体がある程度覚えているみたいだ」
池沢はへえと生返事をした。
「あと、見ることに重点を置かずに生活してみると、電子画面的なものに注意が全く向かなくなったんだ。テレビもパソコンも、もう何日も使っていないぞ」
じゃあテレビを売って八千円を今すぐにと言いかけた池沢に、中田は湯気の立ったチャーハンを流れるように献上した。
「大学に来てないのはなんでなんだ」
池沢はレンゲですくったチャーハンに息を吹きかけながら尋ねた。
「裸眼の俺は、目から半径十五センチしかきちんと認識することができない。だから人の顔なんてまったくわからないんだ。体格と服の色と声以外は、全て同じようにしか見えない。俺の本当の視点から見ると、人間とはここまで無個性なのかと驚いたよ。お前と会った次の日、まだ眼鏡は直っていなかったけど、実は俺大学に行こうとしていたんだ。でも、途中で諦めてしまった。駅のホームで並ぶ行列なんか、お土産屋のキューピー人形にしか見えなかったんだ。人が多いところに行くと、全員が着せ替えフィギュアのように思えて、どうしようもなく気分が悪くなった。しばらく人の顔は見たくなかったよ」
中田はちゃぶ台の上にある眼鏡ケースをつかみ、ビルのように垂直に立てた。
「でもこれが、俺にとっての本当の人間の、世界の見え方だったんだ。池沢、お前も例外じゃないぞ。俺は今まで、お前に対してそれなりのハンサム野郎だという印象を持っていたが、それはあくまで眼鏡のレンズに映るお前の姿だった。俺の世界においての本当のお前の姿は、そこらへんにいる肌色ノッペラボウモドキと何一つ変わらない。目がどこを向いているかよくわからないし、顔だけで喜怒哀楽を判別することはこれっぽっちもできない。本当の俺の世界では、髪型を変えようが化粧をしようが、多分お前はその没個性的すぎる顔面をどうにかすることはできないだろうよ。気を悪くするなよ。俺の目線での話に過ぎないから」
池沢は時折チャーハンを口に運びながら、中田の話を黙って聞いていた。中田の目に映る彼の顔はまさに白い能面で、怒りの顔にも嘲笑の顔にも見えた。
「池沢。前にお前に、視力は財産だと言ったよな。財産なんてものじゃなかった。今までは見せかけの財産のおかげで気付かなかったが、これがないと、世界そのものが一切合財変わってしまうんだな。」
眼鏡ケースがコトンと倒れて、中から眼鏡が片方のレンズだけ顔を出した。本来ちゃぶ台の天板が見えるはずの透明なレンズの向こう側は、中田の目には真っ黒な陰しか映らなかった。
続く