美容師のキムラさん
美容師のキムラさん
まだ学校に通う前からずっと、美容師のキムラさんに髪を切ってもらっていた。キムラさんは中年のおじさんで、いつも髭をはやしている。大きなスーパーの隣の隣にある、ちいさな、鏡が5つくらいしかない美容室で店長をしていた。それでも、「俺は店長っちゃあ店長だけど売り上げはまた別の人に渡さなきゃあなんないのよ」といつも愚痴をこぼしていたのは、今考えればキムラさんは“雇われ店長”というやつだったのだろう。
まだ幼い頃のぼくの記憶の中で、そのちいさな美容室は何人かの若い美容師さんとお客さんとでぱんぱんに繁盛していた。そしてキムラさんはそのきりきり舞いの中で、よく若い美容師さんをどなりつけていた。若い美容師さんはへこへこ謝るしかできないし、ぼくらお客さんはとても気まずい気持ちになった。
キムラさんはとてもおしゃべりが好きな人だった。そしてその内容はちょっと下品なものが多かった。お金や女性や、「男と男の」下ネタ話だとか。そういう話をまだ小学生のぼくにも、まるで同年代のおじさん仲間に向けるように話してくれるのを、ぼくはとても楽しんでいた。
しかし年月が経つうちに、近くに安い美容室がいくつも並ぶようになって、キムラさんの美容室はだんだんとさびれていった。まず若い美容師さんがいなくなって、いつもキムラさんが一人で店を開いているようになった。「雇う金がないんだよな」と、キムラさんは素直に理由を教えてくれる。そのころにはぼくも中学生になっていた。
ぼくが高校生のころには、ぼく以外にお客さんを見かけることがほぼ無くなっていた。キムラさんの僕とのおしゃべりも、いつも同じことを喋るようになった。ぼくが小学生の時に一緒に美容室に通っていたナルミちゃんの話。「お前の友達の、ほらナルミちゃん。あの子全然こねえなあ」彼女はもう5、6年は来ていないはずだった。
「店閉めたらさ、俺いつも酒飲んで、ここに泊まっちゃってるのよ。客待たせるソファで寝てさ。最近もう、家には帰んねえ」そういえば、キムラさんの家族の話も聞かなくなっていた。
ある日、キムラさんの美容室に行ったら、そこが新しい美容室になっていた。キムラさんは、ぼくになんにも言わずに店を閉めたらしかった。新しい美容室の人に事情を話したら、キムラさんは千葉の美容室に就職して美容師を続けているということと、千葉のお店の電話番号をその人は教えてくれた。
ぼくは電話をかけられなかったから、14年髪を切ってもらって、キムラさんとはそれきりである。