何にでも牛乳を注ぐ女
最近NHKで「何にでも牛乳を注ぐ女」というフェルメールのパロ(?)MVがちょっとした盛り上がりを見せた。絵のなかの女が注いでる牛乳が、やけに細かく描かれていることから、これは!料理の仕上げにそっと牛乳を注いでいるのではないか?という発想の元つくられた楽曲だ。
実際のところフェルメール研究では、当時のオランダはメイド(絵の女)を性愛的な対象として見ていたので、かなり性的な意味あいが強いと考えられている。だが、そもそもフェルメールは絵画数30数点で参考文献も少ないため、あくまで論に過ぎず、もしかしたら本当に料理の仕上げに注いでいる可能性は否めないのだから是非MVをみてほしいものだ。
そんな前知識を持って行ったのが上野のフェルメール展だ。彼の静けさと温かさを両方味わえる独特な絵は、他の風俗画にはみない。充足感がある。
現在では、フェルメールは大都市で数多くのパトロンがいた同時代のレンブラントと比べられ、「金持ちレンブラントと貧乏フェルメール」と揶揄したりする。
「売れない芸人は罪ですよ」と言った親子漫才を思い出すが、子供が10人もいたというフェルメールも果たして罪な画家だったのだろうか。
彼の絵から感じる隙や余裕といったものはどこか日本人の和の価値観と親和性が高い気がする。どうしてこんなに目線が合うのだろう、と思ったら意外なわけが後々わかった。
フェルメールは親族の相続財産などで、不自由のないとまでは言わないが、不労所得で食うには困らなかったのである。私はこれまでお金持ちか貧乏か、どちらかの著名な画家しか見てこなかったが、オランダは市民が台頭した時代だ。その時のいわば中産階級の彼だからしか書けなかったその穏やかなは絵は彼のすごした平和な世界そのものなんじゃないか。激動の時代をへて、私たちとようやくあったその視線を離さまいと思う。