杉田水脈氏の発言について

杉田水脈氏の発言について

 

総合政策学部4年 長内あや愛

 

杉田水脈衆議院議員が新潮45に寄稿した『「LGBT」支援の度が過ぎる』というテーマの文章が世間で大きな話題を呼び、これを擁護する企画を行ったところ、2018年10月号をもって休刊となる事態になった。このことから寄稿記事の杉田議員の主張について考えていきたいと思う。

 

多くのメディアで話題になっている「LGBTは生産性がない」という発言は、どういう文脈で書かれているのか。賛成できない発言の真意とはなにか。と考えながら見開き約2ページを読み進めていくと、前半部分、意外なことに、意見としては賛成だった。

この1年間で多くのメディアでLGBTが取り上げられてきたことから、杉田議員は「最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利をまもることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを会主押してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。。。」と論じている。私もメディアでLGBTを過剰に取り上げることは、逆に、当事者を苦しめることになっているのではないかと思うのだ。確かに、LGBの性的指向やTの性同一性障害を持っている方は、地球上の人間の中ではマイノリティであることから生きづらさもあることだろう。

しかし、生きやすくなるためには、「特別」な存在から「普通」の存在、つまり当事者自身がマイノリティからマジョリティへなることではないか。当事者でない大多数のマジョリティが、当時者を特別扱いし、過剰に報道することで、壁を作ってしまい、特別感を演出してしまっているのではないか。全人類の中で、自分と全く同じ人間はいないわけで、様々な人間のタイプがいることを私たちはすでに理解している。その少し先の延長線上と捉えるだけでいいのではないか。一見、”関心がない”、”冷たい”と同様の意見かもしれないが、理解するだけでよくて、特別扱いをする必要はないのではないかと思う。

今回の杉田氏の発言を自分なりに解釈しながら、後半も読み進めていこうと思う。

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