受け入れること・疑うこと
先日、新潮45が「同性愛者は生産的でない」という主旨の国会議員の記事を掲載したことをきっかけに、大きな批判を呼び廃刊へと追い込まれた。掲載した直後から批判されたにも関わらず、次号に大衆へ反論をするような記事をさらに掲載したのも余計に怒りをかったのだろう。バカだなと思う。
しかし、私はトランプが大統領選挙に勝っていこうこの偽リベラルの波には大変疲れ切ってしまった。確かに、人は皆違って皆美しい。同性愛者は結婚を認められて一向に構わないし、肌の色の違いだけで生まれる差別はやめるべきだ。だだ、私たちはどこか自分の意見を大切にすることはよいが、自分の意見を疑うことを忘れがちになり、都合の良い一面だけをみるところがある。リベラルというのはマイノリティを救うことが目的ではなくあらゆる意見を包括的に受け入れることではなかったか。
二木雄策氏という交通事故で愛娘を失った人がいる。彼は法学部で教授をし、生徒に功利主義の素晴らしさを唱えてきた。例えば、フォード・ピント事件というものがある。これは、フォードが発売したい車に重大な欠陥があり、死者を出す可能性があると知っていたにも関わらず、会社を存続させていくためには例え死者を出して裁判を起こされたとしてもリターンが大きいとしてそのまま新車として発売し、実際に予期された事故が起きてしまったことをきっかけに起きた事件である。功利主義からするとリターンが大きいのであれば、フォードは支持するに値し、二木氏も支持していた。しかし、その後で二木氏は自分の娘を事故で亡くし、賠償金として娘に価格をつけることを余儀無くされる。私は功利主義が間違っていると言いたいわけではない。自分の意見が常に正しいわけではないということを言いたい。こういうと、リベラルな人は、それは人を傷つける思想じゃないか!と考える。では問いたい。じゃあ自分の付き合っていた相手が同性愛者だと告白されたら?これは悲しいが受け入れられるかもしれない。でも、自分の子供が結婚に連れてきた相手が大量殺人者の息子だったら?彼らだって立派なマイノリティだというのに。絶対に否定をしないという自信がどこにあるのだろう。
私たちはいつだって不完全なのだから疑うことを忘れてはいけない。