「その様、まさに戯画である。」

鳥獣戯画(鳥獣人物戯画)とは、京都市高山寺に伝わる絵巻物であり、その歴史的価値から国宝とされている作品である。そして、この鳥獣戯画の展示が上野にある東京国立博物館にて為されている。

甲、乙、丙、丁の全4巻からなる“長”大作である。国宝の展示ともあってその人気ぶりは凄まじく、中でも甲巻の展示は観覧するのに平均2時間程度並ぶ必要があるようだ。かくいう私も2時間20分並ばされ観覧を果たした客の1人である。

 

この作品を見たとき、まず印象に残るのはその発想の面白さと線の豊かさである。これを戯画(戯れに描いた画)と解釈する人がいるようだが、戯れに描いたにしては、線の表現力、構図の整い方が鮮やか過ぎやしないかと私は思う(ただし片手で数える程も鳥が出てきていないのに、“鳥獣”という熟語を作品名につけてしまうセンスの無さには驚く。蛙に恨みでもあるのだろうか)。戯画という熟語からこれを落書きのように描かれた作品だと、考えなしに観ている人が会場にどのくらいいたのだろう。

ところが、会場では皆物思いにふけるように、じっくりと観察しながら、ゆったりと歩を進めるのだ。何にそんなに時間をかけているのか、ふと耳を傾けてみると「何のために書かれたんだろう」「なんでこれを書いたんだろう」などと聞こえてくる。これは戯画(戯れを描いた画)であって、その戯れているのが人ではつまらないから動物にしてみたというだけのことではないのか。宮崎駿がいて、艦これが流行っている日本だ。平安末期から鎌倉初期にそのような発想をする人間がいたってなんらおかしくないではないか。この画に何か意味を求めて2時間程並び、何十分もかけて画を熟視する人が会場にどのくらいいたのだろう。

 

私が作者であったら、この現代の光景をなんとおかしく思うことか。緻密に、しかし流麗に描いた、大して無意味な画を、多くの人間が何かメッセージ性のある落書きと思って寄ってたかっているのだ。戯画展と聞いて足を運べばなるほど合点がいく。その様、まさに戯画である。

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