小石
小石
小山峻
寝坊をした。なぜ今日に限って私の耳はアラームを認知しなかったのだ。自らの不甲斐なさを呪いながら、私は二車線道路に沿った歩道を大股で駆けていた。
ブンブンと揺れる左腕を水平に留めて、腕時計を見た。今から二分後に出発する電車に乗れば、辛うじて間に合う。目線を正面に戻すと、道路を挟んだ右斜め前の方向に駅が見えた。しかし前方の歩行者用の信号は、たった今赤に変わってしまった。ここの信号は色が変わるまで一分以上はかかる。このままでは間に合わないではないか! 私は走りながら後ろを向いた。こちら側の車道は、二十メートルほど後ろでバスが停車している。すぐさま前を向きなおし、向こう側の車道を見た。信号が青になり、白いバンがゆっくりと発車し始めている。横断するなら、今しかない。私は前に出した右足を軸に方向転換をして、踏み込み車道に出た。着地した左足に力を込めて、再び跳んだ。道路を二つに分ける植栽の前で一度着地するつもりだったが、勢いをつけすぎたために、右足が植栽の砂利に突っ込んでしまった。靴の中に砂が入り、足首に枝がチクチクとぶつかったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。私はそのまま植栽を飛び越え、向かい側の車道も横断した。まばらな人ごみをかきわけて駅に入り、階段を二段飛ばしで掛け合がり、閉まりかけていた電車の扉にかばんをねじこみ、死に物狂いで乗車した。
閉じた扉に体重を預け、荒くなった呼吸を整えている内に、私はあることに気が付いた。右の靴の中に、一個の小石が入り込んでいる。靴下越しの足の裏の感覚では、小石は手の小指の爪にも満たない程度の大きさで、ちょうど土踏まずの下あたりにひっそりと存在していた。それまでは気にも止めていなかったのだが、いざ小石の存在を認識しだすと、漠然とした違和感がじわじわと右足から湧くようになった。
電車が規則的に揺れる度に、小石がほんのわずかに土踏まずに食い込んでくる。頭をからっぽにしているとそのことばかり考えそうだったので、好きでもないアイドルの歌を頭の中で流し続けた。だが電車の揺れるリズムに合わせて、小石が小さな主張を立て続けに繰り返している。私の関心は、徐々に足の裏の違和感に浸食されていた。遂に頭の中で小石の形を想像してみた時に、私ははっきりとしたむずがゆさを覚え始めた。違和感は不快感へと変貌した。
私は右足の親指とかかとに力を込めて、軽くのびをした。小石に当たらないよう、土踏まずの位置を上げようとしたのだ。土踏まずに接触する面積は減ったが、完全に解放されたわけではなかった。かゆみというのは、そこに留まり、絶えずうごめくのだ。電車が揺れるのと共に、右足の裏に蚊の針ほどの釘が、一本ずつ刺さっていくような感覚を覚えた。
これはかなわない。今すぐ革靴を脱ぎ、箱の奥のチョコレートを取り出すように靴を手で叩き、諸悪の根源である小石をぱっと床に放ってしまいたかった。しかし屈んで靴を脱げるスペースは周りにはない。なんとなく格好悪い気もしたために、実行できなかった。
はたから見れば、私は紺のスーツに青いネクタイ、焦げ茶色の革鞄と黒い革靴を身にまとい、何というわけもなくただ立っている、ごくありふれた格好の男である。私自身、電車の中で今の私のような男を見かけても、星の数だけいる一般人の内の一人にしか見ないだろう。まさに今深刻な被害を受け、その解決策に頭を悩ませているなど露にも思うまい。
しかし実際は一個の小石によって、体力と精神が人知れず削りに削られている。仕事に差支えが出たらどうするのだ。これは諸君が思っている以上に由々しい問題だ。靴の中の小石が引き起こす社会的損失について研究している人がいたら、何億でも出資してやりたい。真剣にそう考えてしまうほど、私は今苦しんでいるのだ。
とにかく中途半端に辛い。目的の駅に着くまで、このささやかな苦難を黙って耐え忍ぶことなどまっぴらごめんである。というか遅刻寸前なので、目的の駅に降りてもそんなことをしている暇はない。かくなる上は、次の駅で私の背中に向かって乗客が羊群のように押し寄せてくるのに乗じて、爪先立ちで歩いて小石を靴と指の先端との間にある空洞に移動させるしか手段はない。本来なら一瞬だけホームに出て、小石を除去してから再乗車すればよいのだが、降車駅では反対の扉が開くのだ。今のうちに、できる限り向かいの扉に接近しなければならない。先にも述べたが、時間はまじでないのである。
次の駅に到着した。後ろの扉が開き、大勢のサラリーマンが乗車してきた。私はゆっくりと背伸びをして、爪先をすりながら前進した。土踏まずにあった小石が皮膚から離れて、中底を転がっていくのがわかる。おお、心地よい。かゆさは離れなかったが、確かな解放感がそこに生まれていた。
ところが一つ問題が起こった。親指の付け根の部分で立っているせいで、小石がそこに引っかかって進まないのだ。一時的に右足を上げて空洞を作ろうとするが、どうしても詰まってしまう。爪先を床に二度叩きつけても、小石は動こうとはしない。むしろ無理矢理食い込ませようとしたために、小石が足と靴に余計に強く固定されてしまった。扉はもう閉まっている。人の波に流されて、私自身は吊革が掴めない扉と向かいの扉のちょうど間の位置まで進んでしまった。しかし、小石は動かない。これはどういうことかというと、動き出す電車の揺れに対して両足でバランスをとるために、右足を踏ん張らなければならないということである。すなわち、小石が先程よりも深く足に食い込むということでもある。嘘だろう。自分の身体がどのような目に合うかわかっていながら、それでもやらなければならないのか。私は恐怖さえ感じていた。
電車がガタンと動き出す。左足だけでは耐え切れなくなり、私は右足をトンと置いた。小石が靴下越しに、音もなく足の裏に食い込んでいく。はじめに感じたのは先程と同じような、蚊に針を刺されたようなかゆみであった。だが直後にその針は太く鋭いものへと変化し、私の足の裏に強烈な痛みを与えた。右の膝が一瞬崩れ、隣に立っていた小太りのサラリーマンに睨まれた。私が平謝りをしている間、痛みの余韻は爪痕を刻むようにかゆみへと変化した。ふざけた置き土産をよこしよる。足の裏の皮に、虫が喰らい付いている錯覚を覚えた。その牙の力は、食いちぎるにはあまりにも弱い。しかしたしかに牙は足に食い込んでいる。いいや、これはもっと惨くて気色悪いものだ。目には見えない無数のミクロの腕が、足に張り巡らされた神経を、隅から隅まで掴んで絡んでかき回している。固く足と一体化した黒光りする革靴が、拷問器具のように見えてきた。次の駅に停車するまで、あと二十分ある。私に、これを、抵抗せずに耐えろと言うのか?
なんなのだ。かゆい。はがゆい。もどかしい。絶えず送られる中途半端な刺激が、右足を不快の沼の水面まで引きずり込んでいる。腕時計の針は全く進まない。二十分も耐えられるわけがないではないか。右足がもだえるように、小刻みに震え出す。それが電車の振動と共に、余計に小石の食い込みを助長して、右足の裏は浅く静かに蝕まれていく。私は自分の手のひらに中指の爪を押し込ませて、上下に動かした。手の爪ならば、こうして思う存分に好きな場所をひっかいてかゆみを取り除くことができるのに。右足の親指を力の限り内側に曲げたが、足の裏には届かない。同じ爪だろう。爪を備えているくせに、どうして目と鼻の先の不快感を排除することができないのだ。人間の身体の構造は、何とも理にかなっていない。救いはないのか。いっそのこと、一思いに足を引きちぎってくれた方がはるかにましだ。誰でもいい。誰かこの、一秒一秒ごとに確実に耐え難い痕を刻み付ける小石をどうにかしておくれ。目の前の景色は徐々に白けていき、右足の力がゆっくりと抜けていく。小石に活力を奪われ、干乾びていくような気分であった。
たかが小石ごときに、どうしてここまで気苦労をしなければならないのだ。地べたに横たわることしかできない、道端に落ちていても気付かれもしない、吹けばたやすく飛んでしまうであろう、この小石に。もしこの小石が目の前にあっても、小石は私には何もできまい。隙だらけの私の後頭部に乗せてやったとしても手も足も出せないし、そもそも手も足も持ち合わせていない。小石というのは、非力であり、無力な存在なのだ。いや、存在という言葉を使うことすらおこがましいのかもしれない。こいつは尊く気高い生命というものも持ち合わせていない。食物連鎖のピラミッドにすら組み込まれていない。他の生命の糧となることもない。自身から何かすることもできないし、まわりから何もされることはない。要はいてもいなくてもどちらでもよいのだ。文字通り、関係がない。憐みの眼差しを向けようにも、視認することができない。それが小石なのだ。
そんな透明と何ら変わりのない小石が、今私の足の裏で存在感を出している。私だけに、かゆみを通じて。本来この小石には、存在感など端から持ち合わせていなかった。ただ偶然、右足の裏に入り込んだだけだ。私は小石を認識せざるを得なくなった。数多の砂利の中の一粒としてではなく、その私の足の裏にあるただ一つの小石として。ここではじめて、小石は存在することができたのだ。私のおかげだ。一人にしかわからないとはいえ、小石は途方のないゼロではなくなったのだ。いわば私は小石にとっての恩人であり、生みの親であり、神にも等しい存在であるのだ。
それなのに小石は、なぜ感謝し崇め奉るべき存在に牙を剥くのだ。
何を付け上がっているのだ。勘違いするな。本来何の価値もないのだろう。存在する意味がないのだろう。だったらせめて、多少の価値と存在する意味がある者の邪魔をするんじゃない。お前は私がいなければ、またゼロに、また無に戻るだけだ。お前にとってようやく生まれた一本の関係に、傷をつけようというのか。自分の首を絞めることしかできないのか。恩を仇で返すことしかできないのか。寄生虫よりもひ弱で卑しい、最低最悪の屑め。恥を知れ。私は小石をすりつぶすように、右足にかける圧を強めた。小石がつぶれる気配はまるでなく、むしろねじこむように足の裏を押し返した。再び瞬間的な痛みと、尾を引くかゆみに襲われ、私は目を閉じて歯を食いしばった。あくまでたてつく気か。なんと生意気なのだろう。
いいや。さてはこいつ、ようやく繋がった関係をより太くするために、あえて私に不快な思いをさせているのではないだろうか。はじめの私にとっての小石との関係は、「右の靴の中に偶然入った小石」であった。その後小石が私に害を与えるようになってからは、「右の靴の中に偶然入り、私の足の裏に痛みとかゆみを感じさせているごくつぶしのような救いがたい小石」と認識するようになった。私の小石に対する意識が強まり、思うところも増えた。すなわち悪印象ではあるものの、私と小石の関係は以前よりも濃いものとなったのだ。やつにとって私は、唯一の関係を持った相手である。どんなかたちでもいいから、それが途切れぬように様々な手段で私の注意を向け、多くの印象を抱かせようとしていたと考えれば、一連の態度の意味も理解できる。まるで男子小学生だ。屈辱的ではあるが、やつに悪意を抱いた時点で、向こうの思惑通りだったのだ。
実に許し難いことである。これ以上好き勝手をさせないために、私は小石とのつながりを完全に絶たなければならない。そのためには、怒りに任せてこの小石を投げ捨てればいいのか。きっとかゆみのもとは消え去り、気分も爽快なものになるであろう。しかしそれでは、ある意味で私は小石に敗北したことになる。今まで小石は、一人の人間の足の裏と頭の中をかき乱すことしかできなかった。土踏まずや親指等が、革靴の水面下で多少の攻防をしたとはいえ、全ては感覚の領域の問題だった。だが実際に、靴を脱いで中身をあさり小石を取り出し、腕やら肩やらの筋肉を総動員して小石を投げた場合、私は小石の次元を飛躍させることになる。これら一連の大規模な行動は、小石に触発されて行うわけだ。すなわち、小石の持つ力、存在する意義を、私自身が高めたことになるのだ。最後の最後に私と小石につながりがあったことを、私が形ある行動によって認めたということになるのだ。それは敗北以外の何物でもない。私は小石を投げるわけにはいかないのである。
ならばどうすればいいのか。私は震える右足を両手で押さえながら、考え、そして一つの答えを導き出した。そうだ。何もしなければいいのである。頭の中で小石に対する罵倒を考えても、小石を投げ飛ばしても、最終的に小石が得をすることになる。私と小石との間の関係が、濃密なものになるからだ。それならば、小石が私にかゆみを送り、私が小石に悪意と小石を除外する行動を送るという双方向の関係を破壊してしまえばいい。私は小石に何も感じない。何もしようとしない。そうすることにより、小石は私に送るかゆみは、一気に無意味で虚しいものへと化す。何をしても、何も返ってこない。そうして小石はやがて、今度は私の足の裏で、だれからも注目されることのない存在のない存在へと戻ってゆくのだ。
それは簡単なことではないだろう。だが、小石を再び0に戻すという信念さえあれば、きっと成し遂げることができるはずだ。心頭滅却すれば石もまたかゆくなし。小石の上にも三年。全ては覚悟でどうとでもなる。
この足の裏のかゆみというのは、税金と同じで、夏の日差しと同じで、老いと同じだ。苦に思うことがあったとしても、仕方がない。もともと人生に、あって当たり前のものとして組み込まれている。向き合ったところで、どうなるものでもないのだ。だから流す。考えない。かゆみを感じても、それを意識の内に入れなければいい。
それが今の私にできる、小石に対する最も残酷な仕打ちなのだ。
足の裏がかゆい。だからどうした。だいたい身体というのは、常にどこかをかゆく感じるものだろう。革靴の中に何かがある。だからどうした。私はそんなことに構っているほど暇ではないのだ。そもそも足の裏に小石などあるのか。想像の産物ではないのか。例えばぬるま湯を熱湯だと偽ってかけたら、かけられた人は火傷をしたと思い込んで、皮膚が火傷をしたように変化したという話があるではないか。想像妊娠というのもある。それと同じなのではないか。砂利に足を突っ込んだ時、勝手に靴の中に小石が入り込んだと錯覚して、架空の小石に悪戦苦闘していただけだ。小石などあるはずがない。かゆみを感じたとしても、それは向き合う必要のないものだ。いつか消える。もしくは慣れる。だから関わるな。向き合うな。感じるな。鈍感になることこそが、人生を謳歌するための最大の秘訣なのである。
こうして私は、小石を無色透明にしていった。はじめは阿鼻叫喚に値する苦悩であったかゆみも、次第にぼんやりとした、何となくの違和感へと様変わりした。足の裏が何層ものオブラートに覆われているような気分だ。想像力とは、このようにして活用すべきなのだろう。まったく実に単純な、とるに足らない問題であった。
はて、問題とは何だったか。思い出そうとしたが、反射的に思考がストップしてしまう。どうやら想像のオブラートは、頭の中にあったものも包み込んでしまったようだ。別に、思い出せなくてもいいだろう。思い出せなくても特に困っていないということは、その程度の問題だったということである。
電車が目的の駅に到着した。扉が開き、乗客がうごめきながらもホームに吐き出されていく。私ものそのそと外に出ようとした。ホームに降り、数十分ぶりに足を上げて大きな一歩を踏み出す。地面についた右足の裏が、ぐいと何かに押された。ああ、小石か。ふと思い出したが、同じタイミングで、それがどうしたという言葉に上書きされた。そうだ。だからどうした。無限にある小さな違和感の一つに、目を向ける必要はない。早歩きで目的地へと向かった。右足を前に出す度に、わずかに筋肉が硬直したが、私はただ前を向いて歩き続けた。目線は決して下げはしない。次第に右足は、何の信号も発してこなくなった。かくして私は、無事に目的地へとたどり着くことができた。その間右足首より下の皮膚は、完全に全ての感覚をシャットアウトしていた。
右脇腹が激痛を覚え、救急車に運ばれたのはその日の夜のことである。家に帰り、靴を乱雑に脱ぎ捨てたところで、右足だけに風が吹いた気がした。後ろを振り向くと、右の革靴の穴だけがこちらを向いていた。そういえば、小石だ。あれはどうなったのだろう。私はまさにその時まで、小石のことを完全に忘れていたのだ。やろうと思えば案外やれるものなのだなと感心しながら、革靴の中を覗き込んだ。薄く影がかかっていたが、そこには何もない。しゃがんで爪先の奥も見たが、やはり何もなかった。どういうことだ。途中で勝手に放り出されたのだろうか。私は何の気なく右足の裏をなでた。その瞬間である。私は急激な腹痛に襲われた。腹の中に得体の知れない異物が現れた。そいつは見境なく暴れて、私の腹の中にあるありったけの臓器を引きちぎって周っている。痛いなどという形容詞では収まらない。人類が体験しうる全ての苦痛を一つの鞠に収縮し、そいつが腹の中で跳ねているような心持である。我慢できるできないといった、そういう次元ではないのである。全身が寒くなり、歯を震わせ、這いつくばりながら私は死に物狂いで病院に電話をした。その後の記憶は曖昧で、とにかく腹の張り裂けんばかりの痛みに耐え、救急車の中でやたらめったらに嘔吐をしたところまでは覚えている。続きは翌日の昼過ぎ、真っ白い病室のベッドで目を覚ましたところから始まった。
医者は横になっている私に向かって、病状をゆっくりと丁寧に説明してくれた。話を要約すると、昨日の腹部の激痛の原因は、胆のうにできた石のせいだった。石は手術によって摘出され、腹痛のもとは完全に根絶されたそうだ。毛布のせいで見ることはできないが、腹部の地肌を、布のようなテープのような何かが覆っていることに気が付いた。
医者曰く私の胆のうにあった石は、大きさは平均的だが、密度が高く通常のそれよりもかなり重い石だったのだそうだ。実際に見てみるかと、医者が少し興奮気味に聞いてきた。ちょうどその時、右足の裏がかゆみを覚えた。同時に脇腹がかすかに痛んだが、ゆっくりと裸足の左足を動かし、親指の爪で右足の裏をかいた。かゆみと痛みは、何も言わずに消え去った。
結構ですと私は答えた。