魔の山

16歳か17歳の時に途中で挫折したドイツの教養小説。トーマス・マンの「魔の山」。今回はハンスカストルプ君と共にサナトリウムに行く事ができた。

主人公のハンスカストルプは両親と祖父に死なれ、叔父の家に住みようになる。彼はエンジニアとして働く事が決まり、その前にサナトリウムにいる従兄弟のヨーアヒムに会う。後にハンスカストルプはこの別世界に魅惑され、何年もの間そこに止まることになる。

はじめに感じる疑問は、なぜ彼がサナトリウムから出られなくなってしまったのか。それは平地にはない魅力からであった。一言でいうと、それは死の世界の魅力である。まず、時間感覚をなくすという点において。ここには四季がなく、また単調な生活は毎日を区切ろうとしない。その生活は短くも長くもなく、永遠を感じさせる。それから、社会的な規範が存在しない点において。例えば帽子を被らないしステッキも持たない。それに加えて、無作法なショーシャ夫人。ハンス青年は先天的な死への憧憬(これは祖父の死に起因する)と夫人への非常識な恋から、サナトリウムに住み着くようになる。

結局、ハンス青年は戦争により、つまり外部的な要因により、サナトリウムを去った。では内部的な要因からサナトリウムを出るためには、どのような思想があるのだろうか。ここで私は登場人物の1人ペーペルコルン氏をあげたい。彼は論争を好まず、感情を重視する。ワインを仲間と共に飲み、落ちていく人生への感情を高めようとしている。これはナフタのように死に向かう陶酔ではなく、生に向かうための陶酔である。超感覚界ではなく、現象界に生きるためと言っても良い。一方で、ペーペルコルンはセテムブリーニとも違う。彼も同じく生を礼讃するが、その手段は理性と明確な言葉による。ハンス青年が議論好きなナフタとセテムブリーニよりも、あくまでも曖昧だが説得力あるペーペルコルンを評価したことには共感できる。

最後に、ショーシャ夫人が去った後のハンスの無気力さから、愛による感情の高まりが生に向かう道筋、サナトリウムを出る1つの道だという仮説を立ててこのコラムを締めたい。

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