雨
その日は雨だった。数秒打たれるだけで制服の下に着ている下着が透ける程度には濡れるであろう程雨。私は傘を持ってきていなかった為、高校の昇降口でどうしたものかと軽く頭を抱えていた。天気予報では「晴れ後曇り、傘は必要ないでしょう」と言っていたはずなのだが。
今日は週に一度のやなぎの家に泊まる日であり、やなぎが帰宅する前に夕飯を作ってしまおうと考えていた。しかし空からは雨が降り注ぎ、手持ちにそれを防ぐ道具もない。このまま自宅に帰るならばずぶ濡れになっても構わないが、今日はそうではない。ずぶ濡れ、下着を晒したまま買い物をするのは避けたいし、さらにそんな格好で他人の家に上がるのはその人に迷惑がかかってしまう。そしてその他人がやなぎであるという、やなぎがそんな格好を見たらきっと心配するだろう、それだけはどうにかして防がなければならないことだ。
やなぎ、私の最愛の人。年は四歳と学生恋愛としては離れているが私はあまり気にしていない。大人の基準で考えれば四歳くらいなら普通の差だ。やなぎとは少し前に所属していた団体で出会い、そのまま恋に落ち、その団体が解体された後お互い普通の学生なった。そしてそのまま現在まで一般的な学生カップルとして付き合っている。
さて、濡れないようにとはいえこのまま学校で雨が降り止むのを待っていたらお腹を空かせたやなぎが帰ってきてしまう。向こうは帰ったら既に夕飯ができていると考えているはずなのでそれが準備されていないと知れば空腹に拍車をかけてしまうだろう。
どうしたものか。濡れるわけにもいかず、ここでただぼうっとしているわけにもいかない。目に入ったものは傘立てにある持ち主不明の傘。それを使うという案も頭に浮かんだが、それは立派な窃盗だ。そんなところを誰かに見られでもしたらせっかく積み上げてきた優等生とイメージを崩しかねない。次の案は手持ちのバッグで雨を防ぐというもの。これはバッグの中身のものを犠牲にすることになるしまず自分の身を守るという効果からもあまり期待はできない。部活動中の友人に聞いてみるという案もあるが持っているかもわからないし、持っていたとしてもその友人はどうするのだ、ということになってしまう。
これはもうお手上げだろうかと気持ちの半分くらいは諦めていた頃、自分と同じような境遇の女の子たちの会話が耳に入ってきた。
傘、どうしようか。生協に売ってなかったけ。でもちょっと高くない?そうだね。
そうかその手があったか、そう思った頃には私の体は生協の方へ歩き出していた。生協に着くとあの女の子たちの言った通り傘は販売されていて、すぐに購入した。ただのビニール傘が四百円というのはなかなか損した気分にはなるが、それっぽっちであの状況を打破できたのだからと考えると安いものだ。
やはり雨は強かった。学校から出て買い物為スーパーの方へ歩いていると、少し風も吹いていたため傘を差していても風に煽られた雨が足元に潜り込んできた。これはもう諦めるしかない。やなぎにドライヤーでも貸してもらおう。
少し歩きながら周りを見渡してみる。雨で数十メートル先はもう真っ白だ。その靄のような壁の中からうっすらうっすらと傘を忘れたのであろう人々がだんだんとこちらに近づいてくる。「傘は必要ないでしょう」と言った天気予報の罪は重い。きっとテレビ局の電話はいつもよりうるさく鳴り響いているのではないだろうか。
スーパーはいつもより人が少なかった。いつもなら夥しい数の主婦たちが肩をぶつけ合いながら中を闊歩してるのだが。
時計を見ると既に五時近く。もたもたしていると間に合わなくなる、今日はすぐに作れるものにしよう。肉じゃがなどはどうだろう。そう決めると同時に私は野菜売り場に向かった。野菜を腐らせないための冷房で少し寒い。ここは緑黄色で視界の大半が埋め尽くされているが、その分じゃがいもやたまねぎなどの薄い色合いのものは見つけやすかった。
手にとって大きさや腐っている部分がないかを確認する。少し土のように鼻にくる香りがした、私はこの匂いが好きだ。そうして買い物カゴの中は空から薄い茶色に染められた。
肉の売り場に来た。ここは赤一色だ。うっすらと血の匂いが漂っている。嫌いだ、この匂いは。長くここにいると吐き気を催してしまうから買うものを買ってすぐに離れよう。と思ったがやなぎの家の冷蔵庫にまだ牛肉が残っていたような気がする、やなぎ自身ほとんど自炊しないからきっとまだ残っているだろう。結局なにも買わずにその場を離れた。
「あれ、やはぎじゃん」
会計をし、買ったものをバッグに詰めている時のことだった。同じクラスの男子生徒に声をかけられた。帰宅部のその子はどうやら親に買い物を頼まれたらしい。自分と同じように野菜などの食材が入ったレジ袋を手に提げていた。
「お前も家族に頼まれたパターンか?」
「いや、これから彼氏の家だから」
その男子生徒はニヤニヤしながら「あー、なるほどなるほど」と私の買ったものを眺める。「お前、結構尽くすタイプなんだな」
やなぎのことは学校でも有名で度々そのことで茶化されることがある。口が軽い知り合いに広められたのだ。別に隠すつもりもなかったから怒っているということもなかったが、やなぎと一緒にいるところを写真で撮られたり、大学生と付き合っていることが教師の耳にも入り、教員室に呼び出されて変な関係ではないかなどと問いただされた時には流石にイライラした。
「じゃあ急いでるから、また明日ね」そういってその場を離れる。
変なことするなよな、という声が後ろから聞こえてきた。余計なお世話だ。
まだ雨は降り続いていた。傘を開いて歩き始める。先ほどよりも雨は強くなっていることに気づいた、傘では防ぎきれないほどまでに。制服の肩のあたりがだんだんと湿気を帯びてきていたからだ。そのおかげか外を歩く人が少なくなっている。傘を持っている人でもコンビニなどで雨宿りしているらしい。しかし私は今現在とても急いでいる、そんなことをするわけにはいかない。
歩いても歩いても視界は灰色、いつもなら夕日で眩しいくらいに橙色に染められる時間なのに。そういえばいつかやなぎとそんな夕暮れの中を歩いた覚えがある。
あれは私が今の学校に編入した日で、やなぎが世の中の周りの学生より早く就職先が決まった日の夕方だった。理由は覚えていないけれど珍しく手を繋いでいて、夕陽が赤い光のおかげで互いの顔がよく見えた。これからの学校生活が少し心配だだとか、そんな他愛もない話をしていたような気がする。あの時は言葉通り不安もあったけれどそれ以上にこれからどんな生活が待っているんだろうと高校生らしい素朴な希望を眺めていた。その希望通り、友人にも数多く恵まれて授業についていけないなんてこともなく、とりあえず現在までは幸せと言っていいだろう生活を送れている。
やなぎはどうなのだろうか。ふとそんなことが頭をよぎった。私と同じように普通の学生になり、普通の生活が送れるようになって、やなぎは今幸せなんだろうか。
そんなことを考えているうちにやなぎの家に着いていた。制服の肩から袖の先までが雨に濡れてしまっていた。確か私の服が何着かあるはずだから着替えておこう。やなぎ宅に仕込んであった私の着替え、Tシャツとデニムに着替えて制服をハンガーにかけて室内干しにしておく。きっと明日には乾いているだろう。
時計を見るともう六時を過ぎている。そろそろやなぎが帰ってきてしまうだろう。掃除をしてしようと思ったが先に夕飯を作った方が良さそうだ。台所で買った食材を取り出し水洗いから始める。外が湿気で蒸し暑かったということもあり水道から流れる水がとても心地いい。そのまま水で買ったじゃがいもを洗いながらピーラーで素早く皮をむいていく。最初はピーラーで手の皮も一緒にむいてしまい台所を赤く染めたこともあったが今ではもうお手の物だ。何事も慣れればできないことはないとあの時実感した。次は玉ねぎと人参だ。包丁は最初からある程度使えたため私は正確さと速さを求めた。基本の猫の手はもちろん様々な切り方の知識も頭に詰め込んだ。きっと主婦や並みの料理人よりかは上手いという自負はある。味付けの方は舌の問題ということもあり、正直個人差が出る。私もやなぎも濃いめの味付けが好きだが味が濃いものが続いてしまうと生活習慣病になって後々大変になってしまう。台所を任されているからには味と健康志向を両立したものを作ることは義務と言っていいだろう。
そうして肉じゃがが出来上がった。早い、簡単、おいしいの三拍子が揃った料理といえる肉じゃがは今日の私のような急いでる人にはとても助かるものだ。その後味噌汁を作り冷凍されていた白米を電子レンジで解凍した。後はやなぎが帰ってくるだけだ。もう掃除してしまうという案も浮かんだが料理ができた後に掃除して埃を舞わせるのも気が引けたため今はやめることにした。
それにしてもやなぎの帰りが遅い。授業が長引いているのだろうか。こんなことは今まであまりなかったのだが。
外を見るとやはりまだ雨は降り続いている。数十メートル先はもう見えない。窓からやなぎの家がある集合住宅に面した通りを見下ろしてみると誰一人として外を歩いている様子はない。やはり皆どこかで雨宿りしているのだろうか。ここでやなぎもその「皆」の中にいるではないかという考えが浮かんだ。
慌ててバッグに入れていたスマートホンというものを確認してみる。案の定やなぎからメールが来ていた。
「雨で駅から動けない。できたら傘を持ってきてほしい」
やってしまった。このメールが来たのはちょうど夕飯を作り始めた頃だ。この時間になっても帰ってこないということはきっとまだ駅付近にいるはずだ。私はすぐに「今から行きます」とメールを返し雨具代わりに薄手のコートを羽織り家を出た。
駅に着いた頃には私は全身が濡れに濡れていた。傘は差していたものの走っていたため上半身は傘のしたに潜り込んできた雨で、下半身は水溜りから跳ねてきた水で濡れてしまったのだ。もちろんやなぎは心配し、バッグの中からタオルを取り出し軽く髪などを拭いてくれた。帰り道では、携帯を持っているのだから定期的に連絡がきていないか確認するようにと少しだけ怒られた。
二人で帰ってきた後、私はすぐに夕飯を温め直そうとしたが、やなぎに着替えとタオルとともに風呂場に押し込まれてしまった。これもやなぎなりの好意なんだろうと私は考えてシャワーだけ浴びることにした。自分たちぐらいの年になるとお風呂が嫌いな人はあまり見ない、だけど小さな子供の頃は誰でもみんなお風呂が嫌いだったんだ、と前にやなぎから聞いたことがある。理由はお風呂に入ってる間は他のことができなくなるからだそうだ。どんなに楽しい遊びをしている途中でも親からお風呂に入れと言われたらそれを中断してお風呂に入らなければならない。それが小さな子供たちは嫌だったんだとやなぎは言っていた。もちろん、私もお風呂は嫌いじゃない。しかし今日のようにやなぎとの時間を削ってしまうようなお風呂は、ちょっと嫌いだった。
お風呂から上がるとダイニングに広がっていたのは既に用意された夕飯。「おいしそうでなるべく早く食べたかったから」とやなぎが用意してくれていたようだ。こういった小さな気遣いは意外と嬉しく思うし、実際やなぎのこういうところが私の心を打ち抜いたのも事実だ。
夕飯を食べながら今日の天気のことで少しを愚痴を言いあったりと別段いつもと変わらないような会話を並べていた。やなぎが大学の女性と出かけることになったと言った時は流石にいつも通りとはいかず場が冷たくなったけれど。
夜も深くなってきた頃、明日も学校がある私は先に布団に潜った。今日は夕方からそそっかしい行動ばかりしていたためか思ったよりも疲れていた。やなぎは明日は授業がないからといいパソコンの前でなにやら書類らしきものを作っていた。手伝えるものなら手伝いたいが、そんな知識もないしきっとやなぎが近づけさせてくれないだろう。
目を閉じると雨と風の音が聞こえた。まだ降っているらしい。しばらくは天気予報を信用できないかもしれないなと私は思った。
朝が来た。カーテンの隙間から漏れる朝日を見る限り雨は止んでいるらしい。ベッドを見るとやなぎが眠っている。普通なら寝顔にキスなんてことがあるんだろうけれど、正直私たちはまだそういう段階ではないと思うからやめておいた。何より私たちは、少なくとも私は現状で満足してしまっているんだと思う。変化を恐れていると言ってもいいだろう。昨日の雨のように誰にも予測されず、なんの予兆もなく、やなぎがどこかへ行ってしまうのではないかと思ってしまったからだ。
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