『ミケランジェロと理想の身体』
6月19日から国立西洋美術館にて開催されている企画展示『ミケランジェロと理想の身体』。古典古代やルネサンス期に追求された男性の身体の理想美を紹介するものである。本展の見どころは何と言っても、初来日するミケランジェロによる彫刻作品《ダヴィデ=アポロ》《若き洗礼者ヨハネ》だろう。
《ダヴィデ=アポロ》を前にして私は、ひとこと「広い」と思った。未完のままローマ帝国へ寄贈されたこの作品には様々な解釈の余地がある。男の右足に転がるのはゴリアテの頭なのか、肩にかかるのはアポロが持っていたという矢筒なのか。その答えはミケランジェロにしかわからない。また、《ダヴィデ=アポロ》にたどり着くまでに我々は、幼児美、戦士、アスリートと多様な男性美を追求した作品の数々をくぐり抜ける必要がある。それまでの作品はとても雄々しく、漲る力強さが感じられたが《ダヴィデ=アポロ》の肉体からは、それだけでなく知性が溢れ出ているようだった。この男がダヴィデなのかアポロなのか。男性美の終着点は力強さなのか知性なのか。そういった未知性がこの作品の世界観に幅広さを与えているように感じた。
次に現れるのは成人か幼児として描かれがちなヨハネを少年として描いた数少ない作品《若き洗礼者ヨハネ》である。この作品を前に私が抱いた感情は「恐怖」だった。この少年が怖い。若いうちに早く殺しておかなければ。そう思うほどに少年ヨハネの目は全てを見透かしているようだった。近寄って見ていると、土台はでこぼこ、布は禍々しく、顔はツルツルとしていて、ほかの彫刻作品に比べ、部位によっての質感の差が顕著であることに気づく。こういった手法が、より、ヨハネの逸脱性を強めているのだろうか。
正直なところ、私は美術の資料集に載っていたダビデ像でしかミケランジェロの名を聞いたことがないほど、彫刻作品に疎かった。そんな私でも、自由な感想を持っていいんだと思えるような幅広さを持った作品《ダヴィデ=アポロ》《若き洗礼者ヨハネ》にぜひとも会いにいってみてはいかがだろうか。