ミケランジェロと理想の身体
ミス・アメリカが水着審査を廃止した。「もう出場者は容姿で判断されない」。という。審査対象は、出場者の知性や才能、社会的な影響となるらしい。肉体よりも精神を優先するという風に聞こえる。古代オリンピックの提唱者が聞いたら驚くような方向転換だろう。
古代ギリシャでは、健全な肉体にこそ健全な精神が宿るとされていた。それを踏まえて、オリンピック選手は身体を鍛え、競技で見事な裸体を披露したようだ。一方で、芸術家は美しい身体を求め、それを彫刻に表現した。彼らのテーゼは非科学的だとは思う。だが、人間の美しさを測るときに、目で見られる肉体美を第1に掲げる事は自然で謙虚だと思う。
現在、国立西洋美術館では「ミケランジェロと理想の身体」という企画展が開催されている。古代とルネッサンス期における作品、特に男性の肉体美に関する作品が展示されている。看板作品となっているのは、ミケランジェロが制作した2つの彫刻、「ダヴィデ=アポロ」と「若き洗礼者ヨハネ」だ。
しかしながら、私はこの2つの彫刻は一瞥したのみで、立ち止まる事はなかった。理想美である事は分かる。美しい事も分かる。だが、つまらない。新鮮な感動が沸き起こらない。おそらく、その原因は、理想美が、既に古代で完成されているからだろう。こういった類の作品は、全て同じものに見えてしまう。端的に言えば、見慣れてしまった。一方で、私が足を止めたのは、複製された「ラオコーン」という彫刻だ。海蛇から逃れようとするラオコーンと2人の息子には、他作品にはない動きがあり、その動きが肉体の美しさを違う角度から表現している。
同じ理想美でも、彫刻でなく、現実の肉体だったら、さらに感動するかもしれない。ここで念頭においているのは、人気が高まりつつあるマッスルカフェなるものだ。美しい筋肉を持った男性がパフォーマンスするショーである。これなら、理想に近いが、どこか個別的なところがあり、それぞれに特徴が見出せる。もっと言えば、ポーズによって、汗のかきかたによっても、各々の肉体は微妙に異なる美しさを見せる。コントラポスト一辺倒ではつまらない。
肉体美を捨てたミス・アメリカ主催者も「ラオコーン」には感動するだろうし、なんならマッスルカフェも気にいるのではないか。