僕の夏休み

「僕の夏休み」                    崎津 舞香

僕は非常勤講師。次の学校なんてすぐに見つかるさ。
「あなた、もう出られる?」
「あぁ。お待たせ」
この部屋も、この街も僕は結構好きだったけど、仕方ない事なんだ。前を歩く妻の背中をぼんやりと見つめながら、僕は悲しそうにするべきか、笑顔でいるべきか分からず、俯いていた。

クマゼミは今日も元気に鳴いている。ベランダから下に目をやると、学校へ行く途中の子供達が、これまた元気に走り回っている。
六月二十九日、月曜日、晴れ。梅雨も明けて、雲一つない青空が広がる。
「あなた、朝ごはんにしましょう」
サラダとスクランブルエッグのプレートと塩コショウ、コーヒーと新聞が食卓に並んでいる。ケチャップはかけずに、塩コショウ派な僕の好みも、熱すぎない絶妙なコーヒーも、何もかも理解された完璧な朝を今日も迎えられた事に、僕は心の底から感謝している。
結婚して三年で妻は、ここまで僕のために家事をこなし、仕事もしている。趣味はランニングで、無駄な浪費をしない、チャーミングで人当りも良く、性格も穏やかな本当に良く出来た妻だ。こんな僕という人間が、妻の様な女性と結婚出来た事が今も奇跡の様に感じている。
さて、仕事の時間だ。
僕は湘南藤沢高校で音楽の非常勤講師をしている。音楽は大好きだが、高校生のガキ共はうるさくて仕方ない。今日は夕方には帰宅出来そうだし、授業は二コマ。適当に頑張ろう。能天気な僕は、あくびをしながらドアを開けた。
「行ってきます」
今日が僕という人間を崩壊させる始まりの日だなんて、その時は誰も知らなくて当然だった。

六月二十九日、午後七時。僕は警察署にいた。
僕は名前も知らないガキのために頭を下げていた。
なんでこんな事になっているのかと言うと、仕事帰りに立ち寄ったスーパーで、万引き現場に出くわした。僕はガキも嫌いだが、それ以上に犯罪は嫌いだ。
「ちょっと君!」
僕はガキの腕を掴んだ。焦りで大きく目を見開いた間抜け面のガキはすっとんきょうな声でこう言った。
「先生!」
どうやらそいつは、僕が教えている高校の生徒だったようで、そのまま警察署に同行せざるを得なかった次第だ。担任の教師と保護者を待つ間、非常勤講師で、このガキの事など名前も憶えていない様な僕が、ひたすらに頭を下げた。まったく、今日は災難だ。担任が到着してから間もなく、
「申し訳ありませんでした!」と
タイトなワンピースを着て、バサバサのつけまつげを付けた金髪のギャルが現れた。
「たかしの母です。この度は申し訳ありませんでした!」
蛙の子は蛙とはこのことかと溜息が出た。
何度も頭を下げるその母親は、見た目に寄らず、敬語は使える様だった。
話し合いも終わり、厳重注意という事で、僕たちは解放された。
非常勤講師である僕が、こんなに拘束されたという事実が腹立たしく、後は担任に任せて足早に立ち去ろうとした、その時だった。
母親が大声で泣き崩れたのだ。
何を思ったか、担任の教師が
「俺はこいつと話しがあるから、親御さんを頼むよ」
なんて、馬鹿げたセリフを吐いて、数メートル離れたベンチへ向かって行った。
僕は非常勤講師。
今日は帰ったらビールを三本飲もう。それから、妻の作る絶品の塩辛を食べながら、録画しておいたアメトークを見て、明日の朝は仕事のギリギリまで寝てやろう。
そんな気持ちで母親にまるで心のこもっていない「大丈夫ですか」の声をかけた。
「本当に迷惑をおかけしてすみません。私の教育不足でした。早くに離婚して、女手一つで育てて来たんです。甘やかしすぎたのでしょうか?お金は足りているはずなのに。どうしてこんなことを」
聞いてもいない事をペラペラと話し始めた。
あぁ、これは自分語りの後に、「そんな事ないですよ、あなたはよく頑張っています」といったニュアンスの慰めを必要とする承認欲求パフォーマンスだな、なんて思いながら落胆した。その予想は的中し、僕はテンプレートなセリフを吐いてなんとか母親を落ち着かせた。この女は地味な僕とは正反対の世界にいる女で、過去の恋人や友人にもいないタイプだし、どちらかと言うと避けて来たタイプの女だ。高校生の息子がいる様には見えないな。何歳なんだ?その髪色だと仕事は察しが付くな、とその女を観察した。本当に派手だな・・・。

でも、一度こんな女を抱いてみたい。

そう思ってしまったんだ。
疲れていたのかもしれない。
涙目の上目遣いで僕を見るその女がだんだん可愛く見えてしまったんだ。
気がついた時には
「僕で良ければ相談に乗りますから」
と言い、連絡先を渡していた。
その日、帰宅した僕は、
ビールも飲まず、テレビも見ず、早々に床に就いた。

それからの数日間、僕は携帯を物凄く気にしながら生活した。日が過ぎ、4日が過ぎ、あの女からの連絡はなく、なんだかバカバカしくなり、女の事は考えない様に生活した。
それは案外簡単に出来、すぐに元の生活に戻った。

七月二十日。午後四時。学期前半の最後の授業を終え、職員室へ向かう途中の事だ。
電話が鳴った。
誰だこの番号?と思ったとほぼ同時にまさか!と体に電撃が走った。
平常心を装い落ち着いたトーンで電話に出た。あの女だった。
電話を切った後、「今日はご飯いいや。職場の人と食べてくるよ」と早々とメールを打つ僕。なぜこんなにワクワクしているのか、自分はバカだと理解しつつ、少しの期待を胸に待ち合わせ場所に向かった。

結論から言おう。
僕はその女を抱く事に成功した。
なんて事をしてしまったのだろう。教師と生徒の親というドラマの様な展開。こんな状況でも「僕は非常勤講師」のお決まりのセリフで自分を正当化する様に気持ちを落ち着けていた。実際のところ、非常勤だろうがなんだろうが、教師と生徒の母親という立場には変わりない。つまりヤバイという事なのだ。

悩み相談という名目で僕たちは居酒屋に入った。
この時点で、まず教師と生徒の親が話しをしながら酒を飲むという事がおかしい。しかし、この女は担任の教師ではなく、僕に連絡してきたのだ。ただ頭が悪いだけかもしれないが、女もそういうつもりだったのだろう。それに、僕に気がある素振りを何度か見せてきた。
僕は結婚してからも、する前も浮気をした事がなかった。女遊びに興味がなく、また、嫁に不満が一つも無かったからだ。しかし今、罪悪感などは全くない。大学時代?いやもっと前の高校時代か?そんな甘酸っぱい恋愛をしている様なドキドキ感でいっぱいになっていた。現実はドロドロの昼ドラに発展しそうなものだが、精神的にはゆずの夏色をBGMに、長い長い下り坂を、女を自転車の後ろに乗せてゆっくりゆっくり下りたい様な気分だった。

この日を境に、僕の不倫生活が始まった。一日限りではなかったのだ。今思えば、もう、あの電話に出た瞬間からお互い惹かれあっていたのだと思う。僕は夕陽ケ丘二丁目、女は四丁目に住んでいて、距離にして1キロ程度。最寄り駅から二駅の朝日が丘で僕たちは会う様になった。ただお茶をして帰る日もあれば、ホテルに行く事もあった。何をしていようが、女とのデートは緊張や恥じらいのある、初恋の様な気持ちにさせられ、それがなんとも心地よかった。大人の恋愛とは思えないほどに、一週間のほとんどを女と過ごした。
女はショッピングモールに行きたいだとか、旅行に行きたいと笑顔で話した。全く危機感のない能天気な女に癒されさえしていた僕は本物のバカだったのだ。女には夫もいなければ、職を失う心配もない。能天気で当然である。高校が夏休みに入ると、僕の元々少ない仕事は、より一層少なくなる。この時の僕は、彼女にどっぷりはまっていて、ネジが緩んでいたのだろう。上手いアリバイも考えず、夏休みの少年の様にわくわくした様子で、「行ってきます」と家を飛び出す日が続いた。そして、その幸せな夏休みはすぐに終わりを迎えた。

「私の実家でしばらく暮らしましょう。お母さんたちには、上手く理由つけとくから。」
僕の妻は最高の妻だ。僕はこの街を出て、妻の実家にしばらくお世話になる事になった。妻がどうしても、この街を出たいようだ。勤めていた高校はクビになったんだ。学校に匿名で電話が入った様で、僕と女が密会しているとバレてしまった。そして僕は、離婚を覚悟の上で、洗いざらい妻に話した。妻は、悲しそうな顔をして、
「あの女性の事はもう忘れましょう?私はあなたを愛してる。あなたもでしょ?私達は愛し合ってる。だから大丈夫よ。」
と、まるで自分に言い聞かせる様に言った。それだけ言って、妻はにっこり笑って、いつも通り絶品の夕ご飯を作ってくれた。何も言ってやれない自分が情けなかった。きっと妻は、早い段階で僕の異変に気づいていたのだろう。学校に電話したのも恐らく妻なのだろう。波風を立てずに、関係の修復を図るなんて、まったく妻らしいよ。

 クマゼミの寿命と同じくして、僕の浮かれた夏休みは終わった。女には、電話でもろもろの事情を伝えた。どうせ会って話したいと言われるに決まっている。だから僕は、履いていたスエットを脱ぎ、ジーンズに着替えていた。しかし女は、
「そう。大変だったわね。ごめんなさいね。でも楽しかった。幸せになってね」
とあっさりと僕を遠ざけた。僕は精一杯鳴き続けたにも関わらず、子孫を残せなかった負け組のセミだ。しんとした部屋に、セミの声が響き渡る。もうミンミンゼミに変わったんだな。僕は泣いた。本気で女を愛したから出た涙なのか、妻への申し訳なさからか、自分のみじめさからか、よく分からない涙をぼたぼたと流した。ベランダへ出て、街を見渡しながら、自分の薄汚い欲望と罪を浄化するかの様に深呼吸した。そろそろ出発の時間だ。もうこの街へ来る事はきっとない。ここでの思い出は全て置いていくからね。
 八月六日午後六時。僕には眩しすぎるほどに綺麗な夕焼けが夕陽ヶ丘の街を包んでいた。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です