柔じゃない

記憶とはいつも不確かで脆い。1日グッと歯を食いしばって、深い眠りに何回かつけば、いやな記憶は次第に褪せて頭の隅の箱に消えていく。

ウィステリアもそうであった。

昼間のファミレスに行けば、夫や姑に対する聞き慣れた愚痴を永遠にこぼしている人が大半だが、そうでない人もいる。ウィステリアはそうでない人で、いつも胸に秘め、何事もないかのようにしていた。

私が純文学を嫌う理由は2つある。一つは普遍的日常から言葉では編み出せない心理を理解させようとするが、決して具体的な本質を突いて来ない点。二つ目は筆者自身も自分の意図を理解できていないのではないかと感じる点にある。

特に今回の話は一つ目の理由にあげた具体的な本質にせまらない話に該当すると思った。形式的な関係と理性を維持することにとらわれ、感情を押し潰した人間が、頭の隅にあったはずの箱がどんどん大きくなって爆発しそうになるのを爆発するまで気づかなかっただけのお話だ。ウィステリアは藤を意味し、「藤は女性、松は男性」というように、日本の藤は女性の象徴である。作者は日本の妻のステレオタイプとその問題を描こうとしたのだと思う。しかし、本当に作者が描いたウィステリア像は正しいのだろうか。私の知るウィステリアとは、ファミレスで愚痴ばかりこぼしながらも、お弁当を作り、上手に節約しながら毎日に向き合って一生懸命生きる妻たちであり、一言も発さずいつの間にか壊れてしまうロボットではない。

一方で本作品が正しく言い当てていることもある。それは面と向かって言わないこと。私たちは「いつも」や「当たり前」が壊れることを恐れて、言うのをやめてしまう。でも言うのをやめたところで、どれだけ忘れたつもりでも、記憶は必ず頭の隅の箱に残っている。確かに「いつも」はとても大切だ。私たちに安心を与える。でも、言わないで爆発してしまうんじゃ後戻りできない。だから箱を開けよう。恐れるな。私たちはそんな簡単に壊れるほど柔じゃない。

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