ウィステリアと三人の女たち
川上末映子さんの「ウィステリアと三人の女たち」という小説を読みました。主人公の女性は不妊治療を受けようとしますが、夫は賛成しません。そんなある日、彼女は解体工事中の家に忍び込みます。そこで、その家に住んでいた老女の半生を想像するのです。それから自分の家に戻ると、彼女は全く別の人間に変わってしまいます。夫でさえ彼女を別人だと思う程です。
この小説の個性的な所は、老女の半生を想像しただけで、主人公自身が変わってしまう所です。
誰かを見て、あるいは誰かの所持品を見て、その人の人生を少し想像する事は僕にもあります。例えば、電車に乗ってきた男女がいて、女性がブランドマークの入った紙袋を持っていたら、男の人がついつい買ってあげたのかなと思います。事実は知りません。勝手な想像です。僕はこれを暇つぶしとして、一種の遊びとして楽しんでいます。
一方、「ウィステリアと三人の女たち」の主人公の想像は、もっと切羽詰まったものです。第一に、気合の入り方が違います。僕の想像は誰かの人生の1コマですが、小説に描かれる主人公の想像は老婆の半生に及びます。第二に、想像した後が違います。主人公が別人になってしまう点はやはり異常です。想像した世界によほど没入しなければ、そのような事は起きないと思います。
この切羽詰まった想像は、不妊治療に対する葛藤に起因するのではないでしょうか。想像された老女ウィステリアの話は、子供の存在に力点があるようです。ウィステリアが恋した外国人教師は子供を失った経験がありました。ウィステリアはその原因を、自分が彼女との子供を考えたためだと解釈しています。これは、主人公の夫が「子供を欲しがろうとしてできなかったらどうするの?」と尋ねた場面を想起させます。主人公は問われた状況をウィステリアに置き換えて想像してみたのだと思います。
この物語では、主人公が想像を終えた後、空き家の暗闇に光が入ってきます。人生の局面で、誰かに仮託して将来を想像してみると、進むべき道が見える。ということでしょうか。その時に以前と全く違う自分がいるということもない話ではない気がします。