ウィステリアと三人の女たちとそれをよむ男

陽が温かくなってきた日々が続いた中で降りだした、梅雨の訪れを感じる雨に濡れて帰宅したわたしは、暖房をつけて本を開いた。昨日の夜は暑く、一瞬だけでも冷房をつけたというのに、まさか今は暖房をつけている。今の季節がいつなのか、戸惑いながら少しずつ纏わりつく湿気が乾いてゆく身体。なぜだか、そんな捉えどころのない温度と湿度がぴったりの小説な気がした。

と、川上未映子風に書こうとしてあまり上手くいっていない文章を披露してみたが、この差はなんだろうか?圧倒的な文才の差はさることながら、彼女の文章には女性の強さが篭っている。それは彼女の性格?思想?性欲?実態の掴めないパワーで綴られている。そういえばそれが川上未映子の小説だった。

子を産む機会を逃し、不妊治療を考える“わたし”は、息の詰まりそうな日々の中、単調な毎日を繰り返している。そんな“わたし”が取り壊されている隣の家の前で、空き家に忍び込む趣味を持つ不思議な女性と出会う。そして“わたし”はふと取り壊されずに残された家屋に忍び込む。そして“わたし”は不思議な感覚に襲われ、前の家主の記憶を辿る事となる。しかしその記憶は、“わたし”の単なる想像上の作り話なのかもしれない。そんなアメーバのように危うい輪郭の中で物語は進んでいく。

私は終始息を飲みながら読み進めた。“わたし”が空き家に侵入してからの文章は、重力がどこからかかっているのかわからない感覚に陥る。映画で言うと「インセプション」や「ドクターストレンジ」のような、空間や次元の歪みを感じる。そして物語は前の家主“ウィステリア”の記憶を想像する話になってゆくのだが、これがまたおかしなほどに事実めいた細かいディティールの文章で展開される。これは事実なのか?しかしふとしたところで”ウィステリア”の中に“わたし”が現れる。そして「ウィステリア編」は最初から最後まで“わたし”と”ウィステリア”がオーバーラップしている事に気がつく。そして、“ウィステリア”が濃くなったり“わたし”が濃くなったり、刻一刻と比率が変化している。想像する側とされる側が互いに運命を影響しあう。そこに、時間や空間の概念は出る幕もなくである。なんと曖昧ながら強い繋がりなのだろう。

しまいには、読んでいる私まで、ぐにゃぐにゃとマーブル模様のこの物語に溶け込んでしまっていたのだった。

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