ヌード展
ある単語の意味は明確に決まっているわけではない。確かに、意味の中心は、辞書にある。だが、それだけじゃない。単語の意味は、その人の経験により重層的に決まっていく。その結果、彼にとっての「ヌード」は、彼女にとっての「ヌード」と微妙に違う。彼と彼女では、読んでいる本も、見てきた絵画も違うからだ。新しい経験をして、一つの単語の意味がより豊かになると嬉しい。と僕は感じる。
今、横浜国立美術館ではヌード展が開催されている。そこには、19世紀から現代までの、西洋の作品が並べられている。もちろん、「ヌード」というテーマに沿って。
「ヌード」と聞くと、僕は雑誌のグラビアを思い出す。それからムーランルージュのダンサーを思い出し、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」を思い出す。共通する事は、それらが理想に近いもので、日常から離れたものだという事だ。もっと言えば、想定されているものは女性である。
美術館に入って、最初に出会う「ヌード」はどれも厭世的に美しい。特にフレデリック・ロード・レイトンの「プシュケの水浴」には見惚れる。写真では分からない質感がある。ただ、展示を回る毎に、僕にとっての「ヌード」は今までにない意味を持ち始めた。描線に重きが置かれた絵画。裸体の原型をとどめていない作品。果ては出産直後の女性の写真まで。「ヌード」というカテゴリーに、異質な新しい事象が次々と投入されていく。それぞれの作品が好きかどうかはともかく、ある単語の意味が豊かになっていくのは面白い。
美術史に沿ったものや一人の作家に注目した展示も良い。それらは一般的な教養を高めるだろう。だが、一つの言葉に沿って集められた展示からは、その言葉の意味の広がりを味わえる。こちらは極めて主観的で評価されにくい営みだが、精神的に豊かになる気がする。いつかどこかで「ヌード」と聞いて、今日見た作品たちが想起される瞬間が楽しみだ。