明晰夢日記
明晰夢日記
小山 峻
夜八時に寝て、午前二時に起きた。二時間勉強したが、眠気がとれなかった。そこで三十分の仮眠をとることにした。熟睡しないように電気をつけたままにしたが、眩しかったので布団を少し深くかぶり目を閉じた。
気が付くと、私はハワイのビーチにいた。
普段の私ならば何の疑問も持たずに、その脈絡の無い世界にある程度は順応しようとしたことだろう。しかし、この時の私は冷静な理性を持っていた。私はつい先程まで、自室で余弦定理の理解に苦しんでいた。そして、今は常夏のパラダイスに佇んでいる。こんなことがあり得るはずがない。つまり、夢である。
私はこの時、初めて自分の意識を夢の中に越境させることができたのだ。世間では、このような夢は明晰夢と呼ばれている。これは脳内において思考、意識、長期記憶に関わる前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられていて、明晰夢の内容は見ている本人がコントロールできるようになる。つまり明晰夢の中では、神にさえなれるのである。
私は過去に、訳もわからず体育教師の携帯電話に蜂蜜を塗りたくって退学するという悪夢を見せられて以来、どうにかして夢の野郎に一泡吹かせてやろうと常々思っていた。私という母体があるからこそ夢は存在することができるのに、私の夢は恩を仇で返したのである。獅子身中の虫とはまさしくこのこと。いつしか私は、夢の主としての威厳を取り戻して、有らん限りの最上の夢を見てやろうという夢を抱くようになったのである。
二度寝をする、部屋の明かりをつけておく等、明晰夢が見られる条件が整っていたのは全くの偶然であった。だが、千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。願ったことが全て叶う世界より素晴らしい世界が、この世に存在するだろうか。かくして私は神になり、夢の中で我が夢を叶えることにしたのである。
問題は何を願うかであった。夢だとわかっているので、金銀財宝や永遠の命を手に入れたところで何の意味も必要性も無い。せっかく神通力を手に入れたのだから、神の行いに倣ってみるべきである。そう思った時、私の頭に天地創造という言葉が浮かんだ。今の私ならば目に映る景色を一瞬で一変させることは愚か、私を世界の中心とした天動説を確立することや、南半球を象やら亀やらに変形させることなど、何の造作もないはずである。私はためしに指を鳴らしてみた。すると視界が段々とぼやけ始め、ハワイのビーチは一面黄土色に染まった。このまま目が覚めてしまうのではないかと心配したが、それは杞憂であった。黄土色の風景は次第に鮮明になってゆく。薄い肌色の壁と天井、小洒落た模様の長いカーペットに変化し、カーペットに沿って数字の書かれた無数のドアが現れた。ハワイのビーチが、どこかのホテルの廊下に変化したのである。その光景は、さながらSF映画に出てくるバーチャル空間のようであった。何故ホテルの廊下になったのかは不明だが、目の前の世界を自らの手で再構築できたことに私は更なる高揚感を覚えた。
自らの神々しさに酔いしれながらも、私は次の望みを考えることにした。直感的に思い付いたのは、空を自由に飛ぶことと、優れて美しい女性とディープな関係になることであった。どちらも人間の雄なら是非とも叶えたい、というよりもむしろ夢の中でしか叶わないような願望である。同時に叶えることは困難なので、年功序列を尊重した。まずは幼少からの願望、空を自由に飛ぶことを優先したのである。
少し念じると私の体はみるみるうちに浮かび上がった。仰向けの状態で浮遊していたのは、明晰夢とはいえ睡眠中だったからだろうか。しかし空中浮遊することはできても、場所は依然狭い廊下のままだった。これでは縦横無尽に飛び回ることができない。結局一人仰向けでぽつんと浮かび、如何にも夢らしい珍妙な光景となってしまった。
やはり美しき女性を召喚したほうが良かったかと嘆くと、どこからか軽やかな足音が。振り返ると、何と目の前に絶世の美女がいるではないか。私は改めて自分の意識とこの世界が直結しているということに感心し、そしてときめいた。純白のワンピースをその身に纏った黒髪の乙女は筆舌に尽くしがたいほど美しく、言うまでもなく彼女は私にとって非の打ち所の無い理想の女性であった。完璧な女性として知られる「源氏物語」の藤壺も、恐らくこのように容姿端麗であったのだろう。さしずめ私は、夢の中の女性との禁断の恋に酔いしれる光源氏といったところか。その上私は、この淑女を意のままに操ることができるのである。私が無造作にホテルを創造した理由も理解できた気がした。至福の境地をも越境したその時の私の顔は、悟りきった仏のようだったのか、下心の化身といえる下品極まりない顔だったのかはわからない。口元が歪な方向に引きつっていたことだけは覚えている。私は自分の滑稽な様など構わずに、ふわふわと宙に浮いたままイナバウアーをするようにその女性に手を差し伸べた。ところが女性は、私を一瞥すると颯爽と歩き去ってしまったのだ。創造主との接触を拒むとは、れっきとした反逆罪である。あの小娘め、火炙りの刑にしてくれる。いや、それだけでは物足りない。あの女の携帯電話にも蜂蜜を塗ってやろう。この夢の中ならば誰であろうと私を退学にすることはできまい。私の中のどす黒い願望は次々と湧いてくる。しかし蜂の姿煮を食べさせてやろうと思ったところで、私は急に焦燥感を覚えた。身体が動かない。胸の奥が引っ張られるような感覚である。やがて私の精神は幽体離脱の如く身体から追い出された。文字通り意識が遠退いてゆく。いけない。まだ空中で変なポーズしかしていないというのに……。
目が覚めた。なんだ夢か、とは当然思わず再び夢の中に戻ろうと目を閉じた。しかし夢の中での興奮が続いているせいか、寝るに寝られない。余計に苛立ち悶えていると、無情にも目覚まし時計が鳴ってしまった。最早、これまでか。私は1つ欠伸をし、涙を呑んで起き上がった。
後で調べてわかったことなのだが、明晰夢を見ている際に複雑なことを考えると、脳の活動が活発になって目が覚めてしまうようだ。私が突然起きてしまったのは、女性への報復について細かく考えすぎたせいだったのだ。まさに人を呪わば穴二つ。こうして夢に良い夢を見せてもらうという私の夢は、僅か十数分程度で呆気なく終わってしまったのである。
明晰夢という貴重な経験ができたことには満足しているが、何故あの女性は私に歯向かうことができたのかは謎のままであった。私は、彼女は私の潜在意識の一部だったのだと推察している。もしあの時彼女を操り思うままにしていたら、私は夢こそが自分の居場所なのだと思い込み、現実の世界に支障を来していたのかもしれない。実際に明晰夢を見すぎて、自律神経失調症や総合失調症になる人もいるらしい。理想の女性を模った真の私は、人としてのデッドラインを越えようとした弱く不憫な私のことを引き留めてくれたのだろうか。きっと、夢を夢で終わらせるなと伝えたかったのだろう。
そんなことを考えつつ朝食をとっていたら、蜂蜜を塗ったパンを落として私の携帯電話が蜂蜜まみれになってしまった。これは、「夢」が1つ叶ったということなのだろうか。