『水切りバサミ-0,1,2』 佐野靜春
人生で最も輝かしい時は、
いわゆる栄光の時でなく、
むしろ落胆や絶望の中で
人生への挑戦と未来への完遂の展望が
湧き上がるのを感じたときだ。
フローベール
〜プロローグ〜
家の前の坂道をまっすぐ下り、河原に出た。
菜の花がまばらに見え始めた景色の中に、島津リルケ以外の人はいない。まだ肌寒い平日の昼間に日光浴を楽しむことは、仕事や家事から解放された一部の人間の特権なのだろう。
「ゴゴゴッ」という音を立てながら、茶色に濁った水が流れている。この時期にしては珍しく、昨夜は激しい雨が降っていた。梅雨と台風以外で、この広い川幅いっぱいに水が流れることは、ほとんどない。
いつもの散歩道にも水が溜まっている。せっかくの日和でも散歩ができないとあっては、河原に来た意味がない。リルケは家に戻ることにした。
河原から家まではずっと住宅街だ。夕暮れ時であれば、魚を焼く匂いやピアノの練習音など、生活感の感じられる一本道であるが、今は閑散としていてまるで人間の気配を感じない。順調に歩けば15分ほどかかるのだが、今日は気に止めるものがなかったせいか、いつもよりも早く家まで帰ってきた。
リルケが生まれる3年前に建てられた実家は、いたるところから悲鳴が聞こえ始めている。玄関もその一つで、昔はスムーズに開閉できた扉も、今は「ガコッ、ギイィィィ」と銀行の倉庫扉のような音を立てなければ、動かすことができない。リルケの誕生から大学卒業、そしてその後に始まった芸術家の卵としての生活まで、ずっと見守ってきたのである。
ーーピシッ
何か硬いものが弾ける音がした。まるで直接脳内で音が鳴ったようなので、一瞬の耳鳴りに襲われただけかもしれない。リルケは部屋に戻り、午前中に描いていた抽象画の続きに取り掛かった。
1
夜更かしは昔から苦手である。大学に入学したばかりの頃は付き合いで何度か夜更かしをしてみたが、翌日にどれだけ寝ても疲れが取れない。それどころか、夜更かしをしてからの数日間は、決まって体調を崩すのだ。
このことを自覚して以来、リルケは夜の付き合いをきっぱりやめた。一次会の参加ですら珍しかったが、二次会への参加はゼロになった。個別に友人と夕食をとっている時でさえ、帰宅できないことを恐れて終電の2本前には帰るようになった。そんなことをしているうちに、もともと友人との付き合いを得意としていたはずが、大学のクラス内で少しずつ孤立していった。
もともと芸術学部に入学する気はなかった。中学・高校の授業中に暇を持て余し、好きな漫画のキャラクターの模写ばかりをしていると、他の教科の散々さとは無縁に、芸術の評価だけが常に5だったのだ。そして運悪く、進路について考えていた高校2年の夏休みに描いたポスターが県内で表彰されてしまったものだから、リルケではなくリルケの親がやる気を出したのだ。
その秋にはリルケの部屋がアトリエになっていた。大きなキャンバススタンド2台、大小合わせて15本の筆、どこで買えるのかわからない世界各地の無数の絵の具たち、プロのアトリエに引けを取らない設備を整えられ、進路にこだわりを持っていなかったリルケは、親の希望に素直に従った。一浪の末に、国内最高峰の芸術学部に入学した。
問題は入学後に少しずつ大きくなった。入学当初は足並みを揃えてスタートを切ったクラスであったが、リルケのように親や他人の意見に合わせて入学した学生がいなかったのだ。他の学生は、皆が芸術家になるために高い志を持っていた。授業後や休日の食事会の場でも、話題になるのは近代や西洋の歴史的な芸術についてばかりで、リルケは全く会話に入っていけなかった。
そしてリルケは、友人だけでなく、学校自体からも距離をとるようになった。
2
抽象画は自分の心の体現者だと思っている。不安、恐怖、幸福、恩恵など、言葉では表現しきれない様々な感情をブレンドして、一枚の紙上で表現してくれる。
高校2年の終わりころから、何かあるたびにキャンバスの前に座っているのは、ぐちゃぐちゃにこんがらがった感情を整理するためだ。芸術学部に進学を決める時も、浪人が決まった時も、無心で絵を描いていた。
描いた絵から何かを感じ取れるほど豊かな才能に恵まれてはいない。けれど、いつも描かれた絵を見てこれからどうするかの参考にしている。明るい絵が描かれていれば良い方向に向かうだろうからそのまま進めるし、逆のこともある。
今描いている絵は来月のコンテスト用であるが、いつも描いている絵と区別はしていない。いつものようにその場の感情を最大限に表現しているだけだ。
春の訪れを感じているからだろうか。キャンバス上に明るい色が目立つ。
ーーピシッ
さっき玄関で聞いたのと同じ音だ。小さい頃によく聞いた覚えのある気がするが、何かの音か正確に思い出すことはできない。硬いもの同士がすれ違いざまに強くぶつかったようだ。
そういえば、今朝も同じような音を聞いた気がする。寝起きだったためあまり気にしていなかったが、さすがに3回目ともなると、違和感を覚えずにはいられない。