ラブレス
あの死体は少年か。
そんなことは実際どうでもいい。実際に両親が死体を前に涙を流したというところに考察の余地がある。彼らの涙は一体なんの涙なのだろう。物語を追っていくとそんな疑問が湧いてくる。世界の当たり前では死体を見たら涙を流す。それが自分の子供ではなかったとしてもおそらく泣き崩れるだろう。しかしこの映画においてそのような当たり前は通用しない。なぜなら主人公の夫婦は世界で当たり前とされている息子への愛が欠如しているからだ。あえて結論づけるなら、あの涙は自分たちの努力が報われなかったことに対しての悔し涙と捉えようではないか。彼らはそれだけの批判を受けるべきである。というのもこの映画は夫婦に対して怒りという感情を想起させる。しかしこの映画が訴えかけるのは、果たしてこれは他人事か、我々の誰しもがあの夫婦になりうるのではないだろうかということだ。だからあえてその主張に反対しようと思う、夫婦に対する明確な怒りで。
私のようにこの映画が語る現実に怒りを覚える人も少なくないと思うのだが、それを邪魔する要素がこの映画には存在する。それは監督の「優しさ」とも捉えるべきか、環境的要因を連想させる「親」の存在だ。夫は身寄りがなく、妻は母から正しい愛を受けていない。劇中の言葉を借りるなら「モンスター」になる仕方のない過去が少なからず描かれるのだ。これは監督の誰しもがモンスターになりうるという主張と対立する。その代償として「親」を描くことで超現実的に描くことに成功しているが、万人に向けたメッセージとしての効果を弱めているのは確かであるし、人によってはあの夫婦に対して怒りではなく同情すら覚えるのではなだろうか。
しかし一つ言えるのは、ロシアのジャージを着てルームランナーを走る姿が表すように、この監督がロシアの悲惨な現状に怒りを覚えていることだ。この怒りが私たちに伝わった今、果たしてこれをロシアの現状として捉えるべきか。SNSの発達に伴って自分への関心が高まる中で比例するように発生する他者への無関心は私たち全員に向けられた問いかけであると言えるだろう。