日常
家の鍵が開いていた。やはぎが来ているのだろう。
「ただいま」そう言って家に入ると掃除機がけたたましい音をあげていた。
掃除機を持つのは近所の高校の制服をきたやはぎ。やはぎはこちらに気づくと掃除機を止めた。「おかえりなさい。早かったのね、サボり?」
「いや、午後の授業が休講だった」荷物をソファに置いておく。「やはぎは?今日学校だろう」
今は平日、昼過ぎ。高校生であるやはぎは当然学校にいるはずだが僕の家にいる。
やはぎは「開校記念日」とだけ口にし、再び掃除機の電源を入れた。
家はまた掃除機から発せられる音に包まれる。あまり僕はこの音が好きじゃない。特別な理由はない、単にうるさいからだ。
特にすることもないので台所でお茶を飲みながらやはぎの動きを目で追う。綺麗な髪だ、と会うと毎回考えてしまうことをまた考えてしまう。肩甲骨あたりまで伸びた黒い髪を後頭部の比較的高い位置でひとつにまとめている。所謂ポニーテールというものだ。やはぎが体を動かすたびに揺れるそれを眺めるのが好きだった。
そんな風にやはぎを眺めていると口を動かしてなにやら声を発していることに気づいた。しかし掃除機に掻き消されて内容まではわからない。
「やはぎ」近づいてみる。「何か言った?」
するとやはぎは掃除機の出力を下げて部屋の角を指差した。「ちゃんと毎日掃除してる?隅っこの方、埃溜まってるわよ」
「暇と気力があればやってるよ」
「その二つが両立する時なんてあなたにあるの?」
その問いには沈黙で返すとやはぎは少しため息をついた。「私だってもういつでもそばにいるってわけじゃないんだから、そういうとこくらいちゃんとしてよね」
「わかってるよ」と僕はそう言いながらリビングの方へ向かう。「それより、せっかく休みなのに友達とかと出かけなくていいの?」
「あら、迷惑だった?」
「そういうわけじゃないけどさ」
「ならいいじゃない」やはぎは少し微笑むとまた掃除機の出力を上げて騒音の中へ隠れていった。
僕は大学4年生、知り合いの紹介、いわゆるコネで就活することもなくただ学生最後の1年を過ごしているだけの存在。やはぎは華の高校3年生、大学附属校だから受験はない。そして一応僕の彼女ということになる。
友人たちには年の差を茶化されることが多い。もちろん僕も高校生は高校生と恋をするべきだと思っていたしそれをやはぎ本人に言ったこともあるが彼女もなかなか頑固なもので一蹴されてしまったことを覚えている。
「恋愛ね、私は間に合ってるわ。あなたに恋してるもの」こう言われたのだ。
彼氏としてそう言われてしまってはもう何も言うことはできない。でも実際やはぎがいてくれて助かった部分も大きいし、もし彼女がいなかったらちょっと辛い場面もいくらかはあった。そう考えるとやっぱりこうして彼氏彼女という関係はいいものなのかもしれない。
出会い方は普通ではなかったけれど特殊というにはまだまだ特殊ではない気がする。一言で言ってしまえばちょっとお手伝いをしていたところでたまたま出会って仲良くなったというくらいだ。
「やなぎ」名前を呼ばれている。掃除を終えたらしいやはぎがいつの間にか僕の隣に座っていた。「ぼーっとしてたけど、大丈夫」
「ちょっと前のことを思い出してただけ。なんてことはない」
「そう、ならいいけど」やはぎはそういうとテレビの電源をつけた。「最近大学の方はどうなの、やっぱり忙しい?」
「普通だよ」
「どちらかというと?」
「暇だね、やはぎは?」
「私も暇ね、受験もないし成績も心配するほどでもない。かといって熱中するようなこともない」目を引くような番組がなかったのかテレビを消す。「どこか行かない?」
やはぎは僕の返事を待たずに「着替えてくるわ」と言い残し寝室の方へ向かった。
同棲してるわけではないけれど、週1ほどで泊まりにくるので何着か着替えがあるのだ。正直なところをいうとちゃんと持って帰ってほしい。
「おまたせ」着替えてきたやはぎは白シャツに青い薄手のカーディガンを着ただけの簡単な格好だった。「どこに行くかは歩きながら考えましょ」
外に出ると春にも関わらず夏のような日差し、少し歩くことが億劫に思えてしまうほどだ。
「どこに行きたい?」
「特にないけど」改めて太陽を見上げる。「強いて言うなら冷房が効いてるところかな」
「じゃあ、カフェにでも行く?そうしましょ」とまた僕の返事をまたずにやはぎは歩き出す。
少し我の強い女の子だと思いがちだが、周りから「主体性がない」とよく言われる僕にとってはとても助かる性格である。もしかしたら彼女自身もそれをわかっているからそう行動してくれているのかもしれない。
桜の木が見えた。葉桜も通り越してもう緑の葉っぱしかない。
「もう夏ね」
「そうだね、まだ5月の半ばだけど」
「それでも世間、というか景色は夏と変わりないわ」やはぎが桜の木の下まで走り寄り葉っぱに触れる。「春は桜とか他の花でもっと景色が鮮やかだわ。でも夏はどこもかしこも葉っぱだらけで緑しかない」
「やはぎはどっちがいいんだ」
返事はなかった。やはぎは聞こえていなかったのかずっと桜の葉を何枚か眺めている。そーっとなるべく静かに近づいてみるとどうやら葉っぱを見比べているらしい。
「なんか違う?」
やはぎは驚くこともなく「そうね」とそれだけ言ってまた沈黙に徹した。
邪魔するのも悪いと考え、ポケットにしまっていた携帯を取り出し、メールが来ていないかなどを確認する。メールは来てはいなかった。もう一度やはぎを見る。まだ葉っぱを見比べている、完全に熱中しているようだった。
ふと思いついて手にある携帯のカメラを起動した。フレームにやはぎを収めるとスラリと下りるポニーテールに目がいった。やはりポニーテールはいいものだと思う。やはぎはこちらに気づいていない。葉っぱを見ながら少しだけ微笑む女の子というのもなかなかニッチなものだと思うが僕は綺麗だと思う。
カシャリと携帯がさもシャッターを切ったような音を発する。それが聞こえたのかやはぎはようやくこちらを見て「撮ったの?」と少し恥ずかしそうな顔をした。
「葉っぱを見てる女子高生を撮って楽しい?」やはぎは僕の携帯を強引に奪い取り、今の写真を見る。
「悪いとは思わないけど」僕もやはぎの手から携帯を奪いポケットにしまう。「そろそろ行こう。こんな時間だし、カフェもすぐ混んじゃいそうだ」
僕が歩き出すとやはぎは「そうね」と言いながら後についてくる。
カフェに着いた後はお互いの学校での生活のことや、少しだけこれからのことを話した。
その後は僕の家で2人で夕飯を食べた後、彼女の家まで送っていくことにした。
「毎回毎回悪いわね」
「さすがに女の子を一人で夜道を歩かせるのはね」そこでふと少し積極的になってみようと考える。「それにやはぎと少しでも一緒にいたいしね」
それに対しやはぎは「そう」とだけ言って後は何も言わなかった。
そして少し歩くと彼女の家についた。連絡はしていた為、家の前ではやはぎの妹が「おかえりー!」と手を振っていた。
「じゃあ、また今度ね」やはぎが僕に肩のあたりで小さく手を振る。
「うん、じゃあまた」僕も同じように手を振る。
そして僕たちは抱き合って熱いキスを交わした。
なんてことは絶対にない。
それが僕らの日常だから。