赤めだか

ことばを生業にする噺家なのだから、文章を書かせて巧いのにも不思議はないのかもしれないが、それにしても鮮やかで流れるような文章である。

つつじの前で、直訴する農民のごとく、談秋は土下座したまま、しばらく動かなかった。その姿を見ながら僕は、ひょっとして談志は、本当は意地悪な人なんじゃないかと思った。ベランダを見上げると、談々が黒いサングラスをかけて伏せた姿で空気銃を構えて塀を通るであろう猫を待っていた。寄席を持たない立川流の修業のカタチを僕はかなり不安に感じた。

談秋という「僕」の弟弟子が、誤って師匠のつつじにキンチョールをかけてしまい土下座するという場面である。談秋はこの騒動以降頻繁にパニックを起こしてまともに前座仕事がこなせなくなり、最終的には「僕」や家元たちのところを去ることになる。

この一齣だけで、作品全体に流れる豊穣なリズムと、情景をみるみる立ち上げてしまう観察と描写の妙は十分に伺うことができるだろう。しかし何よりも凄みを感じるのは、「つつじが許してくれたと思うまで謝っとけ」そう飄々と告げた家元を「本当は意地悪な人なんじゃないかと思った」という一言の内に粛然と投げ込んでしまうところにある。

この自伝的小説(小説的自伝)では、語り手は比較的自由で共時的な位置にいて、みずみずしい文章によって描かれる過去の「僕」でもあり、同時にそれを振り返っている今現在の筆者の目でもある。あるいは当時の「僕」と今の筆者の混淆と言ってもいいようなどちらにもなることのできる存在である。
「今」の筆者は知っている。家元は近寄り難くはあるいが弟子を気にかけ憂慮する、愛情のある師匠であると。しかし当時の「僕」には三日違いで入門してきた脱サラ二十七歳の土下座姿は痛ましく映ったに違いない。

家元には何の悪意も無かったのだということは簡単である。それと同じように、家元は残酷だというのも簡単である。あるいは小説と自伝の差はそんなところにあるのかもしれない。しかし「本当は意地悪な人なんじゃないかと思った」とにべもなく語られるとき、その言葉は決して両者の間で引き裂かれてはいない。そこにあるのは見通せてしまうがゆえの哀しみであり、家元の想いも談秋の想いも郷愁も悲哀も過去と現在に対立する談春の想いすらもその一言の中に封じてしまう強さのようなものにはゾクリとさせられる。それはヒューマニズムとは無縁のものだ。そしてニヒリズムにはなお遠い強さである。

思えば落語とは、演者の一つの体に様々な人間が乗り移り様々なことを語りだすものだ。それは言ってしまえば自分の中にいくつもの他者を抱えこむということに他ならない。そして他者を取り込んでしまうということにも他ならない。対立でも無視でもなく、取り込んでしまう。これは「僕」が志らくに対して取った行動にも通じるが、最も強烈な支配のやり方だと言うこともできるだろう。その暴力性と愛情は、過去の断片的な情景とそれを取り巻く様々な想いを慈しみながら統御し、郷愁も憧憬も焦燥も憎しみも、その力強い流れの下でひとつのユーモアとして紡ぎ出される。そのユーモアは、どれをとっても、何とも芳醇な哀切によって彩られている。

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