『赤めだか』衝撃と証明

 衝撃を受けた。

 エッセイを評するにおいて重視されるべき点は、その人物が自らの人生を晒してまで読者に伝えたいことが伝わるものであるかどうかである。年を重ねて丸くなったような著名人が片手間に出版するようなものならば、過去の美談や苦労話を入れ込み、「本作で初めて語る真実」などと宣伝文句を入れて売り出し、その好感度や人間性を高めるように英雄譚が描かれていれば、それで良い。だがこの作品に関してはそういうものは求められていない。談春が立川流の落語家としての半生を以て読者に伝えたかったのは、その生き様、もしくは彼を育てた偉大なる落語家たちの豪胆さで、それらが読者に「初めて談志の落語を聴いた」驚き、せいぜいそれの十分の一でも伝わればそれで十分なのだろう。

 さて、この作品は言うなれば「自分が才を持つものだと、世に見せつける生き方をし続ける者、あるいはそれを志す者」への挑戦状である。談春が落語に対してそうであったように、人間がそのように生きることは、時として理不尽なほど苦しい。それをまざまざと描いたことで、若い者たちに問うているのである。それだけの生き方が貴様らにできるのかと。そんな生き方をとうに諦めてしまった大人たちにとっては、この作品は芸術に生きた成功者の英雄譚に過ぎない。しかし意欲盛んな若者にとっては、これは挑戦状であり、篩掛けなのである。

 私はこの作品を読むまで落語とは程遠い人生で、立川談春はおろか、立川談志についても名前程度しか知らないほどの阿呆だった。そんな阿呆が、その人物の半生に驚きを与えられ、気づかされた。私は、自分の才に縋る生き方を何故か未だ、心のどこかで諦めきれない若者だと。

 一筆、若かりし頃の人生を語るだけで、他人の人生を揺さぶることができる。読む価値のあるエッセイを書くことのできる偉大なる人物たちは、おそらくすべてそうだ。落語家・立川談春もその一人である。その証明がここにある。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です