イマジン
同じ人間なのに、いつから私たちは線や色で同じ人と人を隔てるようになったのだろう。アキ・カウリスマキの「ル・アーヴルの靴磨き」を観てそう思った。いや、皆そう思うだろう。だけど、これを観てそう思う日本人は、知識的理解の延長線上と誤認しているような気もする。だって、人種も宗教も、政治的な問題は沢山上がっているけど、個人的にきちんと問題意識を抱えている人はごくわずかなはずだ。だからと言って、私はヨーロッパだけの、社会問題を織り交ぜたハートウォーミング映画とは捉えられないと思う。十分に日本人も考えなければならない問題が含まれている。それは、ある盲人の方がされた講義を思い出して感じた。
私が受けたその講義は主にバリアフリーについてだった。バリアフリーといっても、スロープや手すりのような物理的なものだけではない。一番興味深くかったのは、精神的なバリアフリーだ。今まで精神的に保護されてきたものが取り払われつつあるという考え方だ。インターネットなどの技術の向上により、今まで社会制度上弱者として扱われてきた人々が、対当性を求められるようになり、隠れ蓑を無くし始めているというのがその講師の方による指摘だった。私は密航した少年役のイドリッサと障害を持つ弱者を重ねてしまった。人間は古来より、文化を構築しては弱い者やより多くを望む者が違う場所へ移り住み、また新たな文化を構築してきた。しかし、どうだろう。障害者にしろ移民にしろ、隠れたい、やり直したい、と言った彼らの意志は大半の場合、ことごとく打ち砕かれる。
仕方がないのかもしれない。
一人の移民を受け入れれば、多くの移民が流入する。それによって、治安が悪くなったり、職を失ったりするからだ。日本も最低賃金は上がっても、貧富の差が激しくなっている。だから、等しく働けず、社会からの恩恵だけを受ける障害者はずるいと思われるのかもしれない。このような一面を無視して、多くの人が都合よく見たい面だけを見てきたところがあるせいだろうか。忘れてはならない相模原障害者殺人事件という悲劇が起きた。元施設の職員が、己の信じる正義感で19人余りの障害者を刺殺した。犯人の男は手紙で「私は意思疎通が取れない人間を安楽死させるべきだと考えております」と述べ、彼の行いを正義のヒーローだと讃える人もいるらしい。
障害者にしろ、移民にしろ、私たちは同じ空の下で生きる人間。だから弱き者は助け合っていこう、それが私にとっても皆にとっても当たり前だと思っていた。でも残念ながら、時としてそれは当たり前ではない。その悲しい現実に向き合いつつ、マルセルのような温かみのある人間になりたいと私は思う。