カウリスマキ

カウリスマキは徹底して”社会の底”にいる人々を、排除される人々を描き続ける。『罪と罰』では食肉加工場で働きながら殺人を犯してしまう青年を、『街の明かり』では夜間の警備員を、『パラダイスの夕暮れ』ではゴミ回収業の男を、『ル・アーブルの靴磨き』では靴磨きと移民を、そして今作の『希望のかなた』では前作の”移民”のモチーフをより突き詰めて開示した。

作品を一見した人はまず、その光に目を奪われることだろう。鮮やかなテーブルクロスの上にはシャルダンの静物にも似たワインボトルやら果物やらが置かれ、差し込む光がそれらの上に部屋の暗がりとの明瞭な境界線を引いている。こうしたフェルメール的な構図と美しい光は作品のいたるところに散見され、ほとんど愉悦的といっていいほどに繰り返されながら、その静かな官能と人間への愛情を露呈している。

こうした印象的な光を撮る監督の一人にベルイマンが挙げられるが、若き日のカウリスマキはこのベルイマンにカメラを譲り受けて映画を取り始めたというエピソードがある。カウリスマキ自身が語る「影響を受けた監督」の中にベルイマンの名は無いが、美しい光を切り取るもの同士の奇妙な縁とも言える。

またカウリスマキを語るなら音楽を語ることも避けられない。
「ラブシーンなら、パンクロックかショスタコーヴィチ」
カウリスマキがそううそぶくとき、そこにはかつてキューブリックが早回しと『ウィリアムテル序曲』の組み合わせによって従来のラブシーンを“風刺”してみせたときのような諧謔も批判精神も無い。彼はただ純粋に、音楽が映像に隷属することを拒んでいるのだ。

「私の映画では音楽とシーンが常に戦っているんだ。どちらが勝つのか興味深い」
タンゴ、ブルース、ロックに交響曲、それらは極端に寡黙で人間性を剥奪されたキャラクターたちの声を代弁し、ときにそれに呼応し、反駁する。徹底的に排されたセリフや抑制された感情は降り積もり、屈折を繰り返した後に音楽となって溢れ出す。そのとき音楽は映像を補強するためのものでも味を加えるものでもない。力強く語りだす何かである。そして社会の底で排除されるものたちの鬱屈とした思いと衝動が音楽という濾過装置を通すことで美しい結晶となって次々にこぼれ落ちるさまをありありと現前させてみせるのだ。

ストーリーと作品の主題について言えば、カウリスマキは手を変え品を変え映画を作っているが、結局のところ一つのことしか語っていない。それは人間性を剥奪するシステムと、その中に浸りながらもどうにか抵抗しようとする人間の姿だ。

しかし抵抗とは言っても彼らは決して英雄的ではなく、劇的ですらない。なぜなら彼らは叫びも戦いもしないからだ。彼らは沈黙を貫き、耐え忍び、奔走する。必ず手ひどく打ちのめされ、絶望する。そして最終的に与えられるのはごくささやかな救済に過ぎない。

ここにはある一つの確信がある。それは、現代の如何ともし難く絡み合った、システム化されたヒステリーの表象としての不条理は、何か英雄的な行為や死で解消されるものではなく、ただひたすらに息を潜めて耐え忍びながら、不条理を笑い、現実と折り合いをつけ、そして局地的な秩序を常に打ち立て続けることでしか、それに抵抗することはできないという確信だ。

今作でもレストランを開いた男がその経営に苦労するシーンが出て来るが、この構想は『浮き雲』でも主題となっている重要なテーマだ。

たった三人の従業員(+一匹)という限定的な場所を統御することにすらヴィクストロムは苦労する。無秩序は拡大し秩序は崩壊する。しかし、その“常に崩壊し続ける場所”に小さな秩序を確立することこそが、人間性を奪い妻をアルコール中毒にし移民を排斥しようとする“大きな無秩序”に対して為すことの出来るたったひとつの抵抗なのである。そしてその困難や煩雑さの先にしか救済はないのだ。

 

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