『ユニクロ』というブランド
「ユニ隠し」という言葉を、読者諸君は覚えておいでだろうか。ひと昔に流行した若者言葉、ファッション用語の1つである。日本の衣食住の「衣」を担う企業の一つとしてユニクロが台頭してきた頃、「隠す」ことがファッションの一つの正解とされてしまっていた。今振り返ればあの風潮は極端だったように感じる。江戸初期の隠れキリシタンのように、誰もが手を出すことであるのに、その行為自体が弾劾されるという整合性の伴わない扱いであった。この頃のユニクロブランドには一体何が起きていたのか。
ここで一度考えてみてほしい。例えばあの特徴的なマークで知られるルイ・ヴィトンが世間に認知されておらず、上流階級のみがそれを知っていたとする……もっとも、そういう時代は例ではなく時代のいつかに存在したのだが。さてそうなった時に、ヴィトンの価値を認められるのは誰だろう。もちろん、ヴィトンの知識を持つものだけである。当たり前の理論に思うだろうが、この前提が「ユニ隠し」の謎を解く下地となる。
つまり、ブランドというものは知識を持つ人がその価値を認めることで初めて成立するものである。「ユニ隠し」時代のユニクロというブランドは、「知識を持つ人」がそれを陳腐なものだとして価値を否定していたために、知識が広まったことによって却って世の中に広く認められない、言うなれば「否定ブランド」となってしまっていたのだ。
現代においてはユニクロ商品は「否定ブランド」だった当時のイメージを払拭している。その手法を一言でまとめるなら、ブランド化されないブランドという表現に落ち着くだろう。デザインが適度に洗練され、一目見ただけではいわゆるユニクロの商品だと認識されないように変化した。ブランド性が排除されていることが、ユニクロ製品の唯一無二のブランド性を生み出し、隠さずとも認められるものへと成長したのである。
読者諸君もファッションを考える際にユニクロ製品を選ぶならば、その名前にとらわれず、自分の好みで選んだものを身につけて良いのである。そうして選ばれたそれそのものが、ユニクロブランドの理想形なのだから。