最高の一日

やつの後頭部があまりに無防備だったので、俺は後ろからどやしつけてやった。やつは前にのけぞって、衝撃が来た方向を、つまり俺の方を見た。奴は全てを一瞬で理解し、席から飛び上がった。俺はつかみかかる腕を逃れて、後ろではなく前に向かって逃げ出した。活路が前にしかなかった。頭でなく体で、俺はそれを理解していた。やつとすれ違い、机の間を駆け抜け、そして俺は黒板の前にたどりつく。振り返らなかったが、すぐ後ろにはやつが迫っているのを俺は感じる。意味不明瞭な(その後、同級生に聞くと「待てコルァ」と言ってように思うということだった。ただ、彼も混乱していたので確信は持てないとのことだった) 唸り声が近づいている。その声を聞いて先生が振り返り、俺はその後ろに隠れる。ドン、という衝撃が来る。先生にやつがぶつかったのだ。なにがなにやらわからないが、とにかく先生はやつを取り押さえる。やつの力が強いとはいっても大人と子供だ、先生の腕のなかでジタバタともがいている。ふぐーっ、ふぐーっという泣き声が聞こえてくる。やつが泣いているのだ。俺への怒りに燃えながら、しかし、なにもできずに取り押さえられてしまう悲しみに泣いている。先生はどうした、どうしたと聞くがやつは答えられない。ふぐーっ、ふぐーっと泣いている。俺は嬉しくて仕方がなかった。背筋を撫でられたような感じがあって、ブルブルと震えた。もっと、もっと、もっと気持ちよくなりたい。俺は先生の影から出て、やつに姿をみせる。やつがギャーギャーと叫び声をあげる。俺をみて、悲しみが怒りを上回ったのだ。ひとつだけ、意味明瞭なことばが聞こえてくる。

「ごろしてやるー、ごろしてやるー」

俺は抑えられずに大笑いをした。

叫ぶやつと、大笑いする俺、取り残された先生は、その他大勢の生徒に向かって聞く。

「なにがあったんだ?」

沈黙、しかし、少しして、俺の後ろの席の女子が答える。

「野田くんが岩井くんを殴ったんです。突然」

 

俺がやつを殴ったのが3時限目で、俺達はとにかく職員室に連れていかれた。だが、俺といっしょにいるとやつが騒ぎつづけるので、すぐに引き離された。騒ぐやつを見るのが楽しかったので、俺はひとりになって少し悲しかった。

狭い資料室の本棚の間に机と椅子が運び込まれ、そしてクラスの給食当番が俺のところに給食を運んできた。俺は礼もなにも言わなかった。相手もなにも言わず、給食をおいてそそくさに出て行った。

給食はジャージャー麺だった。熱々のつけ汁はきちんと器の八分目までよそられていた。俺は楽しかった。これからは、怒鳴らなくても適切な量の給食がもられるのだ。俺はそこで給食を食べた。

先生は授業があるので、事情聴取は放課後ということになった。残りの授業は自習になり、とりあえず、4限の国語は漢字ドリルを、5限は算数ドリルをやるように言われた。しかし、1問も解かなかった。ずっとこれからどうなるか考えていた。俺はずっと楽しかった。

解かなかったのは、やつを殴った握りこぶしが腫れていたからでもある。骨に異常はなかったものの、打撲になっていたことが後からわかる。しかし、その時の俺はその痛みが楽しかった。

 

放課後、先生がやってきて事情聴取しようとしたが、俺の右手の腫れに気がつくと保健室に連れて行った。先に先生が入って保健の先生と話した。「じゃあよろしくお願いします」そう言って先生は職員室に戻った。

中に入ると、長椅子に座らされて、向かいに座った保健の先生に触診された。飛び上がりそうなほど痛かった。もちろん、それでも俺は楽しかったが、それを顔には出さなかった。

保健の先生は先生から、俺の事情聴取をするように頼まれたようだった。どうしてやつを殴ったのか、遠回しに聞かれた。俺は、ただやつが隙だらだけだったからですと答えそうになった。しかし、我慢して何も言わずにただただ押し黙っていた。

保健の先生の言葉が尽きて、巻かれた氷嚢から水が滴り落ち始めたころ、俺はポツリポツリと話始めた。それは「ごめんなさい」から始まった。俺が話終えるころには、保健の先生は俺に心底同情していた。俺はそれが本当に楽しかった。

 

これが、俺の最高の一日だ。あとはあんまり語ることがない。俺は後日、校長室に呼び出されたが、大して怒られなかった。なにを言われたかも覚えていない。ただ、やつと数人の仲間も校長室行きになって、泣いて帰ってきたのはなかなか面白かった。

俺はいまでもあの日のことをまざまざと思い出せる。

握りこぶしと後頭部が激突する瞬間を。互いの肉がたわみ、そして骨と骨がきしむ瞬間。俺はDVDが再生されるように、自分の体でその感覚がよみがえるのを感じる。

そして、大義名分を持って無防備な人間を襲う快感を、敵に追われる焦燥を、かわいいそうな自分を演じて大人をだます達成感を俺は思い出す。そして取り押さえらたやつの無力な叫びを、睨む目を、もがく腕を。そのたびに俺は背中を誰かに撫でられたように心地がして、ブルブルっと震える。

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