【代理課題】戯言
私は相反するものが好きだ。
「光」と「影」とか、「脆さ」と「強さ」とか、「愛」と「憎しみ」とか。
大学で初めて選んだ研究テーマは「正常」と「異常」についてだったし、毛布にくるまりながらクーラーの風を浴びるのが好きだ。
それに私は真面目で不真面目である。
相反する2つのものは一見かけ離れているようで、いつもそばにある。その境界線は一体どこにあるのだろうか。そもそも境界線はあるのだろうか。
私が「正常」と「異常」について考えるきっかけとなったのは、『17歳のカルテ』という映画だった。
この映画の舞台は、思春期の少女たちが収容された精神科病院。社会に「異常」とみなされ隔離された少女たちの物語である。
社会における「異常」についての既存の定義やイメージは、当たり前とされているものの本当に正しいかどうかは定かではない。しかし私たちはその定かではない様々な基準に従って、社会の中で生きている。ひとたび「異常」である、と判断された者は、多かれ少なかれ隔離される。周囲の者がどこかよそよそしいといったレベルから病院へ送り込まれるレベルまで。隔離、すなわち切り離されるということにおいては、それがはっきりした形であればあるほど、「異常」者にとっては楽なのではないかと私は思う。たとえば、同じ空間にいる中でなんとなくよそよそしくされるより、別空間に切り離された方が楽であるということだ。別空間に切り離されると、「異常」者と「正常」者の摩擦から生じる様々なトラブルからも切り離されるから。しかしそれは同時に、社会からの要求や期待からも切り離されるということである。一度社会から隔離されると、隔離前にはわずかに残っていたかもしれない社会的有用性がゼロになるのだ。ということは、「異常」と「正常」の境界線は、社会的有用性なのだろうか。
人間における「正常」と「異常」とはいわばグラデーションのようなもので、挫折などの精神的苦痛、成功などの高揚によって人は両者の間をいったりきたりするのだと思う。それを社会的有用性などというもので隔離してしまうなんて、世の中って厳しいなあ。