R帝国
カミュはこんなことを言っている。
「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じてはいません。私はどうふるまうべきかを知ることに関心があります。もっと厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、人はどのようにふるまい得るかを知りたいと思っているのです」
これはカミュに限らずあまねく現代作家が共有する問題意識であり(例えば村上春樹などもこの問題意識を強烈に持っているだろう)、中村氏も、この言葉を知っているかは分からないがおそらく聞けば全幅の賛同を示すのではないだろうかと思われる。
「R帝国」は最後の最後に、この問題に着地することで幕を閉じる。矢崎が記憶を持ったまま「どう振る舞うべきか」という問題は、引用したカミュの問いそのものであると言える。しかしこの小説は当然のように、その問題にいかなる回答も示さない。黙殺し、むしろ黙殺することで何らかの答えを示したかのように振る舞っている(中村氏はインタビューにて「今後の社会のあり方次第で小説の未来も変わる、という仕掛けにしたかった」と語っている)。
要するにこの小説は、現代文学の普遍的な「出発点」を、紆余曲折の混走のはての「着地点」に持ってくる事によって、それに何かしらの答えを出した(あるいはアプローチの道筋を示した)と錯覚させる、実に巧妙な仕掛けを取っているのである。
しかし、まあ重要なのは結論ではなく道程である。この小説が現代の問題へ回帰するための「長過ぎる助走」でしかないとしても、そこに伴う景色が深く鋭い洞察であれば、私はなんの留保もなく最大限の賛辞を送るだろう。
さてこの「R帝国」には、四種類の人間がいる。例外はなく、すべての人間がどこかに分類されうる。それは「システムのために生きる人間」、「神のために生きる人間」、「理性のために生きる人間」、「”幸福”のための生きる人間」、この4パターンだ。
現代の延長線上としての「近未来」にこの様な、現代の問題とは逆行するあまりに単純な対立構造を創出したことは、興味深い。というよりも、「ディストピア」という既成イディオムを巧妙に使うことで、その違和感を中和させているところがこの小説の最も優れた点であり中村氏の手腕である。
言ってしまえば「近未来」という世界設定の、現代のとの距離感の操作があまりにも(詐欺師的に)巧妙すぎる。ある時はそれを遥か遠い世界のことのように語り設定の甘さや瑕疵を覆い隠し、またあるときは「差し迫った未来」のように提示することで攻撃的な「風刺」を展開している。
それはどこまでも作り手に都合よく設計された世界であり、究極的な「望ましい現実」である。それこそ作中で”幸福”を求める人々が浸る、閉塞的で心地よい盲目のように。
そして先程あげた4パターンだけの、非常に紋切り型で、金太郎飴的で、自己の中になんの矛盾も葛藤も抱えない単純すぎる人間像が、「ディストピア」という霧の論理の中を通すことでその存在を正当化される。鼻白むラブロマンスや、レイシストへの分析もなく一面的かつ攻撃的な描き方、それらはシュールギャグにも似た様相を呈しており、そこでは一切人間というものは追求されない。きっと氏はそんなものに興味もないのだろう、そう思えるほどに。
そこに存在している作者の視線は、それ自体が暴力的であり、かつ非常にディストピア的である。