『R帝国』
中村文則『R帝国』
先日、滝を見にいってきました。
新潟県の苗名滝。「地震滝」と呼ばれるだけがあって、それは轟音と、飛沫とをあげて激しく流れ落ちていました。全てを呑み込もうかという恐怖感と、大地を削りかたちづくってきたであろうその自然の憤怒の躍動には、思わずたじろぎ、身体はすくんでしまいました。
「これは写真に残しておこう」父の言葉です。
その迫力を、眼前の躍動する現実を、彼はスマートフォンで嬉し気に撮っていました。いやはや、見渡せば皆がそうしている。写真を撮っている。家に帰ってから見返してみるのでしょうか。危険も顧みず岩場に踏みでて写真を撮ろうとするものもいます。おお、恐ろしい。遠く跳ね上がる水しぶきに私は思わず呟きます。
家に帰っての、父の不満足げな顔は私の予想した通りでした。
「なんか、あれとは違う」これまた父の言葉です。
そして父のため息。写真はそのままに現実を切り取っているはずですが、このようなことは往々にして起きるものですね。現実はそう簡単には写させてくれない、そこにプロの写真家の腕の見せ所がある。現実を写す、それどころか、もう一つの現実すら映し出す。それは現実を一変させる。転覆させる。
さて、中村文則氏の『R帝国』について話さなければなりません。
作家はあとがきでこう述べる。「現実の何を風刺しているかすぐわかるもの、何を風刺してるか、一見わからないもの、風刺ではなく、根源を見ることで、文学として表現したものなど、(中略)様々に物語の中に入っている」
例えば、電車でHP(スマホですか)を見る人々。例えば、ネット上での炎上騒ぎ。また例えば、執拗なヘイトスピーチ。しまいには、『移民GO』ですか。あげはじめれば、キリがない。政治から、何から、国際情勢まで、いくつもの、現実をうつしとった「風刺」が含まれているようです。
ですが、私にはこれが、父のスマホで撮った滝の写真のようにしか見えてこない。父の不満足げなため息が聴こえてくるようです。私はため息まじりに、苦笑い。
しかし、どうやら作者はそれに自信を浮かべて提示する。文学作品として、とても満足気に提示する。これが僕の見つめる現実の姿ですと、絶望と、屹然とした文学的表情とを浮かべて提示する。ときどき、まるで何かを見せびらかす子供のような表情も浮かべて。この姿勢には疑問も湧いてくる。
彼は本気か? 狙いはなんだ?
いったいどんな読者を想定しているんだ?
チンパンジー? いや、チンパンジーに対してあまりにも失礼。
では、氏ほどの名立たる純文学作家がこの小説に込めた狙いはなんだったのでしょうか。
これは一種の滑稽小説である——。と、私は言ってみたい。
「クプウ!」R党の幹部・加賀の笑い声。
この滑稽な笑い声に、この小説における読者の正しい態度が示されているのではないか。作者が真面目な表情の奥で、口元を緩めているのが見えてきます。全体にわたって沁みわたる滑稽さ。どこか笑いのこぼれてしまう可笑しさ。戦争や、恋愛を描いてみたところを読むに、作者のユーモアは相当なもののようです。どうやら真面目に読んだ私がいけなかった。読者には作中、加賀の言う20%のチンパンジーの態度が求められている。そして、作者もまた自覚的か、無自覚的か、チンパンジーになってくれているらしい。
そう考えることを許されるならば、絶望の現代を、そしてその先に訪れる未来を、画一的に描かれる〈人間〉の姿を、文学的に描き出した〈新〉発見の数々を、シニカルな笑いに包んでやりましょう! その滑稽さを皆で笑ってやりましょう! そこにこそ、そんな笑いにこそ、希望はあるのです! クプウ!クププププ! という作者の態度に、私はとてつもない感銘を受けずにはいられないのですがね。