秋深く
「でも、それは僕だけのせいじゃないでしょ」
と目の前にいる卓司はホットコーヒーを買った時について来たレシートをぐちゃぐちゃに丸めながら言う。
いつもの口癖が出ている。
確かにこいつ”だけ”が悪いなんてことはない。だけれど文句を言っているのはこっちなのに、「君も悪い」と言われて私がどんな気持ちになっているのか、どうせこいつは考えてなんかいない、と思う。
「そもそも趣味を持っておいたほうがいいとか、世間との繋がりを作っておいた方がいいとか、君が言ったことじゃん。なのに今になってそれをどうこう言われても」
大学を卒業した卓司は普通の会社に就職したものの環境の変化に馴染めず、鬱とまではいかないまでも私が心配するぐらいに弱っていた。
「なんか人と関われるような趣味とか作ったら?」
「仕事だけでも大変だからいい」
一度辛いと感じたら自分自身に対して不貞腐れて、余裕ができても忙しいとか言う頑固なこいつを、なんとか説得して地元のアマチュアのオーケストラとかいうのに参加させたのが梅雨明けくらいだった。参加してすぐは持ち前の内気さがあったものの、徐々に打ち解けていったようだ。子供の頃からチェロを弾いていたこいつはどうやら、周りから頼られるようになってきたらしい。
卓司は精神的に幼く弱々しいくせに、表向きの人当たりは悪くない。というか、私か他人かで接し方が全然違うように感じる。本当にうざい。
「だいたい、『今日もみんなでご飯行くんだね』とか『練習してる時間はあるのに私にあう時間はないんだね』とか言ってくるけど、それ言って僕にどうして欲しいの?」
卓司は再びレシートをいじりながら私に目を向けてくる。そこまで私の言ったことを覚えておきながら、どうして私の言いたいことがわからないんだろうか。
「やめてほしいならそう言えばいいじゃん。そんなに気を使わずにもっとワガママ言ってよ」
どうやら本当に私を悪者にしたいらしい。もっともらしいことを言ってはいるが、こいつとしては、自分はここまで言ってあげたんだ、という予防線を張りたいだけなのだと私には手に取るようにわかる。私の気持ちを汲むとか、こいつには死んでもできなさそうだ。
「いいよ別に。私我慢できるし、ついその時の勢いで言っちゃった。ごめんね」
「僕のせいでなんかごめん」
自分の優位を確認してから、初めてちゃんと謝ってくるところとかも気にくわない。
これで今日もうまくいったと思ったのか、卓司は丸めたレシートを私に手渡して席を立つ。私はもったいないから、冷め切ったホットコーヒーを流し込んだ。
卓司とうまくいかないなと思うようになったのは、付き合ってすぐのことだった。それから9年、私は気づけば薬学部の6年生になっていた。9年も付き合っていれば、周りから「いつ結婚するの?」なんて囃し立てられるし、ちょっと愚痴を言ってみようものなら「もったいないから別れないほうがいい」とか偉そうに忠告してくる人もいる。
正直、本当に面倒くさい。
私のことを思って話しかけてくれる人はどれほどいるのだろう。どうせ周りから面白がられてるのにすぎない。
考えれば考えるほど、卓司とうまくいく気がしない。こいつは身勝手で自分のことしか考えていないし、まるで大きい赤ん坊のようだと思う。
「そういえば今度の演奏会聴きにきてくれる?」
さっきまでの話なんてまるでなかったかのように卓司が私に聞いてくる。だから私は、
「いくと思うの?」
って返してみた。そしたらこいつは「えー」なんて言いながら携帯電話をいじり始める。
環境に負けた生き物は淘汰される。なのに、どうしてこいつはこんなにものうのうとしてるんだろう。私がいなければこいつはとっくにダメになっているはずなのに。感謝して欲しいわけではないけど。
この後、卓司は例のオーケストラの練習に行って、私は時間があって暇だったので近くの百貨店やなんかを3時間ほどぶらぶら見て回ったりした。特に買うものもなく、欲しいものはお金がなくて買えなかったりなんかしてしばらくして暗くなってきたので帰ることにした。
駅まで歩いていると、よくわからないけれど外国人っぽい人が話しかけてきて「お茶しに行こう」とか、「どこに住んでるの?」だとか聞いてきて、私は人と話すのが得意ではないからついつい緊張して、そのせいで変に引きつった笑顔になってしまってうまくあしらえなかった。
外国人っぱいその人は構ってもらえたと思ったのか、なんなのかわからないけれど、私について来てそのまま同じ電車にも乗り込んで来た。仕方がないから無視しつつ、いつもとは違うルートで帰っていると途中でその人はうまく撒けたようだった。
話しかけられる経験も、ついて来られる経験もほとんどなかった私は、その時は半分「面白い経験した」くらいの気持ちでそのことを卓司にメールしておいた。
最寄りの駅について、バスの時間を確認しようとロータリーに出てみると、”その人”はいた。電車から降りてくる乗客の中から誰かを探しているのか、はたまた誰かと待ち合わせでもしているのか、私にはわからなかったけれども、一瞬目があった気がした。その外国人の顔を見るなり、私は驚きか焦りか恐怖か、何かわからなかったけれど駅の反対側に向かって走り出した。
「やばい、なんでいるの、まさか電車からずっとつけられてた?」
息が切れるまで走って、振り向いてみるともう男はいなくて、偶然だったのか本当につけられていたのかわからなかったけれども、興奮と恐怖でとりあえず乗りたかったバスには乗らずに、家には遠回りして歩いて帰った。
途中、やっぱり不安になって卓司に何度も電話をかけてみたけれど、練習はとっくに終わっていてもいい時間なのに、電話には出てくれなかった。
いつもより、だいぶ時間をかけて、もう家に着きそうだといった頃、やっと卓司から電話がかかってきた。
「もしもし、着信たくさんあったけどどうしたの?大丈夫?」
「ちょっとね、それにして遅かったじゃん。いま練習終わったの?」
どうやら送ったメールは読んでいないようだ。
「いや、練習終わった後みんなでご飯行ってた」
今度は怒りのような悲しみのような、自分ではよくわからない感情が込み上げてきた。
「あっそ、さっきね、知らない人に声かけられたんだ。すごく怖かったよ」
「え、どんな人だったの?」
「よくわからないけど外国人ぽかったよ」
「だから、何人だったの?」
なにが「だから」なのかよくわからないけど。
「わからないって言ってるじゃん」
「そんなことないでしょ、見た目とか雰囲気でだいたいわかるじゃん!」
電話の向こうでイライラしているのが私にも伝わってくる。
そんなこと知ってどうしたいんだろう。
「わからなかったんだって、それにその人最寄りの駅にもいたんだよ。つけてきたのか、偶然なのかわからなかったけれど」
「いまどこにいる?」
「もうすぐ家に着くよ、今日は歩いてるの」
「そんな、後をつけてきてるかもしれない相手なのに、どうして歩いて帰るんだ!」
あー、怒らせちゃった。でも何をどう言ったところで怒られるってわかっていた気がする。
こいつは自分の不安を、怒りとして声に出して、自分の中で消化したいだけなんだってだいぶ前から気づいている。
「怖くて、駅の反対側から走って帰ったの、ダメだった?」
「ダメじゃないけど、後ろとかちゃんと確認して帰った?」
「わかんないけど、大丈夫だと思う。ほんとに怖かったよ」
「なんだよそれ…」
こいつもこいつで、そろそろ私にも気を使った方がいいと自制心がはたらきはじめたようだ。
「もっと私にいうことあるでしょ?そんなことしか言えないの?」
「ごめん、怖かったよね、大丈夫?」
こういう時の「大丈夫?」っていうのは自分のとった態度が世間的にみて”大丈夫”だったか、っていう意味だっていうのも、これもだいぶ前から気づいてる。
「大丈夫、こっちこそごめん。練習楽しかった?ご飯も行けてよかったね。みんなと一緒で楽しかったから電話に出れなかったんだよね、邪魔しちゃってごめんね」
「別に…」
やっと家に着いた。電話の向こうで卓司は何を言えばいいかわからないらしい。本当に馬鹿だ。
私は、もう何も言いたくなくて、
「じゃあね」
とだけ言って、電話を切った。
電話を切った後、携帯電話の電源まで落として、疲れ切った私は化粧も落とさずにそのまま眠りに落ちた。