カズオ・イシグロ 日の名残り

この小説は、普通に読めば「信頼できない語り手による自己欺瞞と無為の人生の話」ということになる。しかし、スティーブンスを信頼できない語り手だとみなして読んだとしても、この物語には一つの大きな謎が残るのである。それは、この語り手は、一体誰に対して語っているのか?ということだ。

小説の冒頭で「イギリスの驚異」について触れる箇所にて、スティーブンスは「ご存じない方には、是非一読をお勧めいたします」と書いている。”ご存じない方には”。この一語においてこの一連の手記が手紙や日記ではなく、不特定多数へ向けられたものであることがわかる。しかし言うまでもなく、「品格」に何よりも重きをおくこの主人公が、かつて仕えた主のタレコミまがいのようなことをするはずがない。ここには物語の根幹をなす大いなる矛盾が存在している。

スティーブンスはこの一連の手記を書くにあたって、存在しない読者が、「誰でもない誰か」が読者として、逆説的に存在することを必要としたのである。ここには焦げ付くほどに切実な自己弁護のための粉飾、しかし矛盾を自己一人では抱えきれなくなっている人間の葛藤が現れている。

これによって読者は知らず知らずのうちに語り手と共犯関係を結ぶことになる。精神科医と患者、あるいは懺悔者と神父のような共犯関係を。読者はスティーブンスの自己欺瞞を(スティーブンス自身の抑圧された無意識にオーバーラップする形で)懐疑する存在であり、同時にその欺瞞を担保する存在でもあるのだ。無防備なロマンチシズムもイノセントな幻想も、それが高らかに鳴り響くとき、同時に低音部では歪んだ内省と根深い矛盾が暗流の如く轟いている。それを読者は外部からではなく、むしろ矛盾を抱えた存在として内部から概観するのである。

まさにスティーブンスが屋敷から庭を歩く父の悲痛な姿を見たように、気がつけば読者はある位置に立たされていて、そこから外を呆然と眺めるかのように彼の心象を追体験し、それを”受け入れて”いることを発見する。
その二重性は、奇妙に美しいパセティックな虚無的世界を構築する。エアポケット的な空白と言ってもいいかもしれない。それは恐ろしくソフトで、よそよそしく、心地よく、絶望的である。

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