京の山々

「柚ちゃんはな、パパが先斗町のある芸妓と遊ばれはって(浮気して)、ママと仲直りさせるために、うちがお二人を帝国ホテルにご招待したから、そこで出来た子やねん」と豪語する私の最年長の友人であり、命の恩人(?)でもある、元・先斗町のお茶屋のお母さんと祇園で飲んでいた時のことだ。私は自分のルーツにさほど興味はないけれど、道玄坂の小汚いラブホテルではなく、日比谷の帝国ホテルで命を授かったと思うと悪い気はしなかったし、気が置けないお母さんと杯を交わしているうちに、気分も良くなってつい飲み過ぎて、現役女子大生にしては少々悪すぎるとも言える持ち前の酒癖を発揮し、何が悲しい訳でもなかったけれど、泣いてしまった。

すると、同席していた芸妓さんが、「おきばりやす」と言ってティッシュを手渡してくれた。彼女は「小芳(こよし)さん」という名で、訊けば、私と同い年の二十二歳、十八歳の時に舞妓から芸妓としてデビューし、独り立ちしたということだった。

十八歳といえば、私は浪人生で、御茶ノ水の予備校で講師に斡旋されるがままになんとなく毎日勉強をして、「ソーケーに入れればいいなあ」なんて思っていた準モラトリアムのような期間を過ごしていて、その一方で彼女は、連日深夜にまで及ぶお座敷での疲労に耐えながら、祇園甲部の歌舞練場で早朝から、井上流の家元の前で、舞の稽古に励んでいたのだ。「浪人」という十八歳の私にとっては、それなりに険しくて、そもそも登頂しようという意志を持続することが困難だと考えていた山だったけれど、「修行中の舞妓」だった彼女が乗り越えてきたであろう山々、まるで盆地の京都に底冷えの冬をもたらすような京を囲む山々を考えたら、きっと深い意味はなかったと思うけれど、彼女の「おきばりやす」の一言が妙に身に沁みて、私がこれから挑もうとしている「社会人」という、現時点では、高いのか低いのか、山頂すら見えない山への登山も、気張らないわけにはいかない、数杯のヘネシーでだらしなく泣いている場合ではない、そう思った。

 

 

(フクシマユズノ)

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