ルビンの壺が割れた
「人は見かけによらない。」「口ではなんとでも言える。」「人を見たら泥棒と思え。」
「渡る世間に鬼はなし」派の私にとっては、耳を塞ぎたくなる言葉だ。
この物語は、かつて婚約者同士であった水谷と未帆子のメールのやり取りのみで進められていく。2人は会うこともしなければ、声を聞き合うこともない。
2人の文通ならぬメール通の始まりは、水谷のネトストだ。水谷はフェイスブックで「偶然」未帆子の名前を発見し、友達リストや過去コメントを詮索して、未帆子のアカウントを見つけ出す。解像度の低い写真を引き伸ばし、窓ガラス越しに写る未帆子の顔を特定するという水谷の行動はかなり気持ちが悪い。しかし、その気味悪さを物ともしない未帆子もまた、奇妙なのだ。
パソコンに映る文字だけを頼りに行われるコミュニケーションの中で、水谷と未帆子は相手の一言一句に敏感に反応する。機械的で温もりのない文字がさらに言葉に棘をもたせているのだろう。2人のやり取りを見ながら、メールでのやり取りが極めて苦手な自分の姿を重ねてしまった。「これでもう最後のメールにします。」と互いに何度も言いつつ、2人のやり取りは終わらない。絡まった糸を解いていく様子をもどかしさとともに読み進めるのだが、最後の未帆子のメールによって全てがひっくり返される。まさに壺が割れるように。
本書の題名にある「ルビンの壺」とは、大型の壺にも向き合った2人の横顔にも見えるという特徴を持った多義図形だ。
そして、横顔という言葉には、「表向きには現れないようなある一面」という意味もあるらしい。
自らの横顔を最後の最後に激しく割った未帆子の快感を想像してしまう。
「女というものは誰もが天性の演技力を持っているんだな」
水谷が過去に感じた女の性を未帆子もまた、駆使していたのだ。
今、隣のテーブルで笑いあっている女たち、カップル、仕事仲間、彼らも水面下で心理戦の真っ只中に身を置き、火花を散らし合っているかもしれない。