ジャコメッティ

「人間観察」という言葉が人口に膾炙して久しい。そしてそれを趣味であると平気で公言できる人たちの勇気と鈍感さに寒気を覚えた経験も一度や二度ではない。往々にしてそうした人たちは自分の眼差しに心酔し、観察者というより批評家としての特権欲しさに指を咥えているようだが、そんな安全地帯から一歩も踏み出さない人々とは遠くかけ離れたところで観察という営みの極北、その危険な可能性に身投じた男がいた。

「ジャコメッティは見えるものを見える通りに表出させようと試みた」というのは彼に関する言説を読んでいてよく目にするものだが、彼の一見落書きにしか見えないリトグラフや極端に細長くデコボコした彫像を見る限り、その意味は想像しにくい。しかしジャコメッティがモデルの矢内原に対してよく言っていたとされる言葉を介してみると、多少は彼の目指したものが明瞭になるように思われる。それはこんな言葉だ。

「見られることによってはじめて生まれでるものとして描かなければならない」

知覚によって現れたものに対して忠実になされた表現は、言ってしまえば記号であり存在ではない。ジャコメッティはそうした「表現」を拒み、存在として創出することを目指した。その為にモデルを何ヶ月も拘束しポーズを維持することを強いたり、針金に石膏を肉付けする手法をとったり、あるいは彫刻が無くなるまで削り続けたりした。そうして辿り着いたのがあの細長くざらついた質感を持った彫像なのであり、それはある種名状しがたい不安を覚えるほどの真実味を持って迫ってくる。

特に女性立像Ⅱはそのサイズも相まって凄い迫力だ。東洋的という訳ではないが、どこか神聖で柔らかく仏像にも似た空気感を持っている。それでいて岩肌のようにざらついてやせ細った身体は、焼死体のようでもあり餓死者のようでもあり、切り裂かれて内奥を晒しながらも屹立しているように見える。その圧倒的な存在感と対峙しているときの緊密な関係は、鑑賞などと呼ぶにふさわしいものではなく、体験といっても差し支えないだろう。大げさな言い方をすれば初めて人間というものを見たかのような気分にさえなる。

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