嘘をつくひと

「好き」とか、「嫌い」とか、主観的で本能のような感情を定量化しようとしたところで、できるはずもなく、結局のところ、私はその人のことが「好き」なのか、「嫌い」なのか、わかりかねるし、考えたところで、その人物について思い浮かんでくるのは「好きになり得る要素」や「嫌いになり得る要素」ばかりで、なかなか本質的な「好き」や「嫌い」に結びつかないから、私の中では、「好きでも嫌いでもない人」が大多数を占めている。

しかし、「好き」や「嫌い」がわかりかねる私でも、「生理的に無理」分野に属する人々はさておき、自身が育ったバックグラウンドに裏付けされた、確固たる根拠を持って「嫌い」と言える人がいる。

大嘘つきの父である。私は、父以上に嘘をつく人間を見たことがない。父は、私が幼い頃には、「会議に行ってくる」と言ってスーツで出かけては、毎日パチンコ店に通っていた。肉親が「大嘘つき」ということは、子どもにとっては八方ふさがりの事態である。他にも、父が私や母についた「嘘」は数知れぬが、父は私のことは大変可愛がっていたから、それらはどれも、少なくとも直接的に私を傷つける「嘘」ではなかった。しかしながら、父の「嘘」のせいで苦労している母の姿を見ると、幼子心にも心が痛んだのを憶えている。そう考えると私は、父が嫌い、というよりは、人を傷つける父の嘘が大嫌いだったのだと思う。

ただ、最近になって、当時を思い出して考えるのは、身勝手で、ギャンブル好きで、大嘘つきの父だったとしても、確実に私にとっては存在しないよりかは、存在するほうがずっと良い存在であった、ということと、そんな父とでも、土日に中山競馬場の馬主席で、競馬場の地下通路の店で購入したバナナジュースを飲みながら、パドックでサラブレッドを眺めることは、幼稚園児の私にとって、シルバニアファミリーのおもちゃで遊ぶことと同じぐらい大きな楽しみの一つだったということである。

 

 

 

 

(フクシマユズノ)

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