「忍ぶ恋は日本人だけなのだろうか」
「忍ぶ恋は日本人だけなのだろうか」
総合政策学部3年 長内 あや愛
1930年代アメリカが舞台。一人の男性を中心に社交界=カフェ・ソサエティで繰り広げられる恋物語。”忍ぶ恋”が美徳とされるのは、日本の恋愛だけなのだろうか。アメリカの恋愛はずいぶん寛容だと、お国柄を感じだ映画だった。
ニューヨークの田舎から叔父をたよりに、社交界ハイウッドに出てきた主人公、ボビー。街を案内してくれた秘書ヴェロニカ、通称”ヴォニー”に恋をした。しかしヴォニーには恋人が…あきらめなければいけないのか…。がっかりしたそのとき、彼氏に振られて泣きじゃくるヴォニーが部屋へ。その後二人は結婚を約束した。これでハッピーエンドかと思いきや、ここからがどんでん返し。なんと”ヴォニーの元彼”は奥さんと離婚して、ヴォニーに再アタックをかけていた。しかも、その元彼は叔父のフィルだった。ヴォニーはお金も権力もあるフィルを選ぶのか、純粋に自分を好きでいてくれる青年ボビーを選ぶのか…。
映画を見終わって思ったことは、ヴォニーは失ってから気づくタイプの人だということ、自分はそうなりたくないということだった。結局映画の最後には、 ヴォニーはフィルと結婚し、ボビーは新たな彼女のヴェロニカと結婚する。お互い幸せに暮らしていたはずだが、何年もたったある日ヴォニーがボビーを訪ねてきて、仲は再び急接近。またよりが戻って不倫関係になるのかと思いきや、お互い空を見上げて、終わる。これは、お互い踏みとどまったということなのだろうか。思い続けているという暗示なのか。
アメリカ人が好きな時代、1930年代は幾度と映画になってきた。日本人がノスタルジーを感じる好きな時代といえば、幕末や戦国、高度経済成長の時代だろう。これは私の主観だが、日本時の恋愛は”忍ぶ恋”が美徳とされていると思う。相手を思いやって、相手が悩まないように、自分の感情は二の次で押し殺す。決してそれがいいことかというと、そうとはいわないが、ヴォニーにはもっと相手のことを考えてほしかった。