応仁の乱
「応仁の乱を知らない人はまずいないだろう」、はい、その通りです。「しかし、応仁の乱とはどのような戦乱か、と問われたら、かなりの人は答えに窮するのではないか」。そもそも応仁の乱とは何かと問われるのは、歴史の先生か老後の趣味を満喫しているご年配の方ではないか。
はっきり言って、なぜこの本がここまでも売れているのか答えるのに窮する。背表紙裏には「かつてない明快さと圧倒的筆力!」なんて書かれているが、NHKやBSテレビが放映する歴史の番組を見るだけで、歴史素人である読者の(もちろん私も)知的好奇心は満たされるのではないか。筆力をどんなに駆使しても、小説というジャンルでもない限り、映像の力には勝てない。
帯には「英雄なき時代の『リアル』」と、この本の本質をあたかも言い当てたというようなコピーが見えるが、果たして本当にそうであろうか。英雄がいないというのは、現代日本のあり方も示していると思うが、応仁の乱それ自体に英雄がいなかったと言えばいささか疑問である。というのも、11年続く戦争をしているということ自体、英雄がいなければほぼ不可能である。それは、山名宗全でも細川勝元でもいいのだが、この戦乱に勝ってこの国をこうするのだというビジョンを持ち、それに共感した武士たちがいたことは確かであろう。少なくとも平和な日本に生きる現代の私には、それぞれの大義名分のために命を投げ出しているというだけでも英雄であるように思えてしまう。
この戦乱の始まりは、足利義政と日野富子のもとに生まれた長男、義尚と義政の弟、足利義視の次期将軍争いが発端である。これは義政の政治的能力の無さが引き金を引いたと言っても過言ではない。戦乱の途中で長男の義尚が将軍に決まったのであるが、大名、守護家同士の主導権争いに戦争の大義名分が変わる。応仁の乱が終わったあとは、下克上を可能にした戦国時代が幕をあける。
そう見ると、応仁の乱は旧体制が新体制へと変わる革命の橋渡しのような戦乱であり、全くもって政治が停滞している現代日本が望んでいる集合意識の反映ではないかとも読み取れなくはない。少なくとも私たちは革命を志向しているのである。