伝えない優しさ
映画を見終え、なんとなく釈然としなかった私が真っ先に思ったのは、「この作品のメッセージは何か」だった。インターネットの口コミで読んだ前情報によると、黒人×ゲイというダブルマイノリティーを持つシャロンの切ないラブストーリーということだったが、どうも腑に落ちない。シャロンは、黒人がマイノリティーとなるコミュニティーに所属していたわけではないし、ケヴィンに惹かれて行く様子が詳細に描かれていたわけでもなかったからだ。かといって、アメリカ社会が抱える人種問題を主題にしている様には見えないし、家族愛を歌う映画だというにはあまりにもお粗末だ。うーむ。
私はこれまで何度か映像制作に着手してきたが、それは「伝えたい何か」を効果的に伝える手段に過ぎなかった。シナリオは言うまでもないが、カメラワークやカット割り、カラーバランスにいたるまで、全ての瞬間がメッセージを伝えるための意味を持っている。文章を書くことに言い換えれば、内容が読み手に伝わりやすい様に起承転結を明確にし、「てにをは」を正し、関係のないことは削ぎ落とすのと同じだ。だが、『ムーンライト』からはその意思が感じられなかった。シャロンや黒人社会が抱える問題が複雑に絡み合い描かれ、ゆるゆると時間が流れて行く。普通の映画だったらクライマックスになるであろう、フアンの死やシャロンの少年院生活と行った大事件は、その存在を匂わせる程度にしか表現されない。
監督バリー・ジェンキンスは、きっととても素敵な人なのだろうと想像する。「こんな偉大なメッセージがあるぞ!どうだ!」と顕示するのではなく、あるがままの姿を描き、観た人それぞれの感情の芽生えに期待したのではないだろうか。映画に主題がなくてはならないなどと、誰が決めたのだろう。映像を「伝える手段」としてしか捉えていなかった私は頭を殴られたような気分だった。