はなむけ。「成熟と喪失」
成熟とは喪失を確認することだと。その喪失=死は、充実したものである。身近なことに置き換えるとしたら、少女が大人になる瞬間も確かにそうであるのかもしれない。何らかの代償は伴うが、その喪失は通過儀礼であり、と同時に生まれ変わることとなる。その少女としての死は、女性としての生となる。
私はいつも自分へ生まれ変わりたかった。家を出て関東に一人出てきたのは、いつも付き纏う母の影から逃げたかった。関東へ来てから、私は私だと唯一の個人であると出世した気になっていた。しかし、母は私をまだ見えない何かからいつも守ってくれていた。父も、家族の神のような偶像を演じ、そこから世界とは何かを教えてくれていた。この本から、確かにと思うことへ置き換えるにつれて、今まで見えていなかったことに気づき始めた。
つい昨日の深夜に「東京タラレバ娘」の第1話を視聴した。もう女の子じゃないんだから、自分で立ち上がれ。その言葉が直球で心に来てしまった。転んでしまったら這いつくばりながら進んで、そうするうちに何とか歩けるようになる私にとっては強く刺さってしまった。書くために泣きながら悩むことは、そんな自分を認めてあげることでもあった。私を生きるという覚悟を持つのであれば、その責任も果たさなければいけない。大人に成熟するということは、少女だからと目を背けてもよかったことと向き合うことだ。一種の、甘えを喪失することである。
そういえば先週、この著者は福田和也先生の師匠という言葉を伺った。読み進めていくうちに、私は誰かに「書け、伝えたければ書くんだ。」と背中を押されているように感じた。それが、誰であるのかはわからない。ただ、この世界を自分事として見て感じたことを、言葉で捉え直して伝え続けるんだと言われた気がした。この本との出会いは、これからへの餞のように感じた。勘違いも甚だしいが、この節目に出会えたからには何か意味があると都合よく思っていたい。意味づけは、過去から形成された個々の自由であるのだから。