彼がああして死んだわけ(「成熟と喪失〜”母”の崩壊〜」)

 

1999年7月21日。江藤淳が死んだ。自殺したのだった。

「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」遺書にはこのように記されていた。

生前皆にどれだけ愛され、尊敬されていたとしても、自殺を美化することは決してあってはならないとわたしは思っている。それでも、彼の自殺に対してはそれを認めるような、さらには礼賛するような言葉も多く寄せられている。長年の友人であるという石原慎太郎も「美しい限りで、それは、我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で十分に贖ってくれるはずではないか。彼から、『諸君よ、これを諒とせられよ』と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか」と告別式で哀悼の辞を捧げている。

なぜなのか。なぜ彼の死は認められるのか。自殺が良いとか悪いとかではなく、彼の死は、彼だったからこそ許された部分が少なからずあるのだとわたしは思う。彼は四歳で母親を亡くし、その失った「母」の存在を妻におきかえていた。しかし、その妻に先立たれ、自分自身も病に冒されている状態では、その失った存在を「言葉」を喚び集めることで補うこともできず、彼の喪失した世界はもはや何をおいてもおきかえられなくなってしまった。つまり、彼は「母」を亡くしたことで崩壊しはじめ、その不在を妻でおきかえるのも、その妻を亡くし、孤独な「個人」となり、それを補う言葉も自分自身から生み出せなくなってしまった。『抱擁家族』から「お前も母親が死んで、かえって一人前になれるともいえる」という箇所を引用しているように、彼にとっては「母」を失い、それも絶対的に失いもう取り戻すことができなくなることではじめて「母」から脱却し成熟しているのではないだろうか。

こんな解釈が精一杯なわたしは上野千鶴子さんが言うところの「不機嫌な娘」なのだろう。

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